稲作には強い日照と、豊かな灌漑用水によって豊作が約束され、事実過去の凶作は、水雨による、日照不足が原因であった。してみれば、雨乞いよりも、「晴天乞い」が必要ではないかと思う。村岡町作山の山本篤一氏が語るように、水不足はなく、ひより乞いの必要があったが、妙案がなかったのか、その伝承がないのが実情である。干ばつに不作なしの伝承もある。
 当部落、赤崎においても雨乞いをした事があります。お宮さんの広場で、大きな火をたき太鼓をたたきながら、大きな声で『雨たんもれ、くもれやぁ、リュガンのう、たんもれ、くんもれリュガン(竜神?)のう』と大声で叫びつつお宮さんの広場を、四十八回廻ったようです。
 昭和45年以後は、行っていない。
 八鹿町寄宮(よのみや)、町、宿南は、白山に村中の男女が集まり、松の枝を伐リ集め、大きな火をたく、と言うよりくすべ(燻)て雨乞いをした。
 白山は村で最高の山で、この山を松明(たいまつ)山とも言うが、雨乞いの大きな火が夕暮れの空に赤々と映ったからこの名が付いたようです。
 雨乞い
 ノボリは田植に降りてこられる神様を迎えるヒョウノヤマ(標山)の変化でもあり、また、神に仕える、若者の「忌みごもり」をしている家の印しであり、また武士の馬印から変化したものであろう、とも言われています。
 コイノボリは吹流しから、変化したものであると言われるが、吹流しがなぜ、コイに変わったのか、それもわからない。いずれにしても、ノボリもコイノボリも古くからの行事ではなく、徳川中期以後に発生したものであろうと言われています
ノボリとコイノボリ
 端午の節句
 端午の節句は五月五日であるが、大陰(旧)歴が太陽(新)歴に変わった、今日では新暦の五月五日とする、八鹿町間前、日高町久斗、関宮町別宮などなどありますが、殆どの部落では、一ヶ月遅れの六月五日としている。
 家に長男が生れればコイノボリを立て、祝福する。このような光景は少なくなりました。
  六 月 の 行 事