御祭神: 伊邪那岐命/伊邪那美命/天児屋根命(あまこやねのみこと)
<由緒沿革>
創立年月不詳。江戸時代には若宮大明神と称していたが、享保7年(1722)社殿を新築し明治3年「十二所神社」と改称した。明治6年10月村社となる。昭和36年、覆殿を新築する。
境内社:金刀比羅神社
一説には、雅成親王妃に関する伝説があり、これに関連する<ばば焼き祭り>がある。また、社殿の横に『横穴式古墳』がある。
十二所神社縁起の書かれた石碑。雅成親王とその妃幸姫、ばば焼き祭りの由来などの説明がしてある。
<雅成親王について>
雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日(1200年10月20日) -
建長7年2月10日(1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院の養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。
建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚をした。将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、鎌倉幕府打倒を決意していた後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国に流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。
ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた。
歌人としても優れており、家集『雅成親王集』がある他、『続後撰和歌集』などの勅撰和歌集にも採録されている。
<雅成親王と若上臈稲荷とばばやき祭り>
城崎温泉の町の入口(小学校の裏山)に『若上臈(わかじょうろう)稲荷』という場所がある。
上臈というのは、身分の高い女の人、つまり貴婦人のことらしい。
円山川の海に出る直前・最下流に近い城崎の川岸に流れ着いた身分の高い上臈の亡骸をまつっている。
学校裏の小山の斜面に朱色の小さな鳥居がずらりと並び綺麗だな・・・と思って眺めていた。その若上臈稲荷に祭られている女性こそ、雅成親王の妻だった。
日高町(城崎よりは円山川上流にある)松岡というところには「ばばやき」というお祭がある。
1300年頃、都から夫を追いかけて身重の体で旅をしてきた姫が、この地で産気づき王子を生みました。産後の肥立ちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市(ひといち)で、合わせて20日はかかる」と答えました。
(九日市・豊岡・一日市は地名です)
これは大嘘であと少しのところまで来ていたのですが・・・
これを聞いた姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
その後、毎年洪水が起き村人を苦しめたため、姫のたたりと、人々はその老婆を焼いてしまいました。(ああ・・・残酷!)今でも、「ばばやきまつり」には、竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるというお祭をしています。
松岡は312号線のJR江原駅前から車で約5分の鶴岡橋信号を道なりに曲がったすぐのところにある。目の前は円山川が2度大きく蛇行するところに面していて景色が良い。
境内の周囲はこんもりとした鎮守の森で、敷地内には樹木の根の下に横穴式石窟があった。
また、境内入口近くに日露戦争の時と思われる凱旋兵士の記念塔があった。
横穴式古墳と、境内社「金刀比羅神社」
<狛犬>
<灯篭>