金山稲荷と雅成親王の墓

金山稲荷は、京都市伏見の稲荷山山頂に祀られている眼力大明神を昭和40年12月16日に分霊し、祀られたそうです。
眼病の多数の信者が参詣し、幾多のご利益を授かると云われており、毎年4月20日前後の日曜日に大祭が行われています
豊岡市高屋
豊岡の高屋・・・というところへ行き、主人の用が済むまで待機。
車を止めたその場所でふと横を見ると、私をしきりに誘う大きな鳥居。

「金山稲荷」・・・山の上のほうにあるらしく、道路わきの大鳥居から上は急な山道だ。
よし!と気合を入れて登り始めたけど・・・・行けども行けども到着しない。
山の上のほうを見ると、迂回した山道はここから先もかなりの距離のようなので、戻ってくるまで上がる事にした。

車で数分して、小さな駐車スペースがあり、そこからは石段になっていた。これがまた、(><)行けども行けども・・・鳥居ばかりで本殿に届かないのでした。

すごいな〜〜〜!と思いながら登ると、ようやくお稲荷さんの社があった。ひっそり静まりかえった山の中に沢山の朱塗りの鳥居を従えて威厳のある社だった。
後で家に帰って愛読書「但馬の城」を読んでいたら・・・なんと!
探していた「高屋城」の出城がまさにココだったのだ。(驚)

                <高屋城について>

豊岡市の高屋、福田、岩井の三部落の分水嶺136メートルの山頂が高屋城であり、岩屋の城とも呼ばれている。頂上は200平方メートルの広さで、三層の曲輪をもち、土塁や堀切りなどもよく残存しているが、時代や城主など不祥。

半径500メートル以内には、雅成親王ゆかりの地といわれる光明寺跡(高屋小字西ノ宮)や天正3年、垣屋光成と田結庄是義の攻防の際に焼かれた養寿院(岩井小字大原)の跡などがある。
なお、高屋部落字天王、通称金山、現在稲荷神社が祀られている山頂は城跡と考えられるすなわち稲荷社本殿うしろの一段高い部分に円墳があり、そのつづきの一段高い展望台は天守にあたる。高屋城の出城と考えられる。


                <雅成親王の墓>

ついでのことに、雅成親王の墓を探して見た。
金山稲荷の前の細道を奥へすすみ、豊岡市の火葬場へ続く道の途中、全但バスの「高屋住宅」横の石段を上がる。あった!

                 <雅成親王について>

雅成親王(まさなりしんのう、正治2年9月11日(1200年10月20日) - 建長7年2月10日(1255年3月19日))は、鎌倉時代初期の日本の皇族。後鳥羽天皇の皇子で、母は修明門院、後に宣陽門院の養子となる。順徳天皇は同母兄にあたる。妻は久我通光の娘。新三十六歌仙の一人。通称:六条宮又は但馬宮。

建仁4年(1204年)に親王宣下を受け、建暦2年(1212年)に元服して三品親王となる。翌年には結婚をした。将軍源実朝が暗殺された直後、鎌倉幕府から親王を次期将軍に迎えたいとする要請が出されるが、鎌倉幕府打倒を決意していた後鳥羽上皇に拒絶される。承久3年(1221年)、承久の乱に加担したとして但馬国に流刑となり、同国城崎郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)に幽閉された。その後、嘉禄2年(1226年)に出家する。

ところが、父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた。

歌人としても優れており、家集『雅成親王集』がある他、『続後撰和歌集』などの勅撰和歌集にも採録されている。

        <雅成親王と若上臈稲荷とばばやき祭り>

私が以前に勤めていた職場のある城崎温泉の町の入口(小学校の裏山)に『若上臈(わかじょうろう)稲荷』という場所がある。
上臈というのは、身分の高い女の人、つまり貴婦人のことらしい。
円山川の海に出る直前・最下流に近い城崎の川岸に流れ着いた身分の高い上臈の亡骸をまつっている。

学校裏の小山の斜面に朱色の小さな鳥居がずらりと並び綺麗だな・・・と思って眺めていた。
その若上臈稲荷に祭られている女性こそ、雅成親王の妻だった。(正妻か側室かはわかりませんが)


また、私の住んでいる日高町(城崎よりは円山川上流にある)松岡というところには「ばばやき」というお祭がある。
1300年頃、都から夫を追いかけて身重の体で旅をしてきた姫が、この地で産気づき王子を生みました。産後の肥立ちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋まであと何日かかりますか」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市(ひといち)で、合わせて20日はかかる」と答えました。
(九日市・豊岡・一日市は地名です)

これは大嘘であと少しのところまで来ていたのですが・・・

これを聞いた姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
 
その後、毎年洪水が起き村人を苦しめたため、姫のたたりと、人々はその老婆を焼いてしまいました。(ああ・・・残酷!)今でも、「ばばやきまつり」には、竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるというお祭をしています。


円山川の上流と下流で雅成親王の妻・幸姫に関係した2つの伝承があり、双方にはこれといって連携がなく、私があった人のなかではそれぞれ他方の話を知らない人が多かったのも不思議でしたが、今日は雅成親王の墓に立ってみると、30年以上も都から遠く離れた但馬の地に流され無念のうちになくなった親王と目の前まで来ていながら会えずに死んでしまった姫の悲劇が実感されました。