鶴岡橋
鳥居をくぐると、石の由緒書きがあった
気多神社
豊岡市日高町上郷字金堀227
式内社 (旧社格・郷社)
JR江原駅から312号線を豊岡方向に進むと突き当たりの曲がり角に「鶴岡橋」がみえる。鶴岡橋を渡ると間もなく出石方面に続く土手の上の道の右下に鎮守の森があり、その中に気多神社がある。道路からは直接は全貌は見えないが神社の森であることはすぐにわかる。上郷には親戚があるので良く訪れるが気多神社に行ってみたのは初めてだった。鳥居につながる道は土手の上からはなく、村中へいったん入ってから畑の中の細道を円山川方向へ降りる。
境内は土手の上の道から見て思っていたよりも、ずっと広く本殿の建築もかなり立派なものだった。大きな鳥居には屋根のついた社名の額があった。
かつては約200メートル以上の参道に松並木があったのだそうです。
現在の土手の道路は堤防をかねて近年作られたのですから、昔は直接円山川の川原へと続いていたはずです。
上郷集落は古代から人々が住んでおり谷間の山すそからは数十基の円墳が発見されています。
また、平安時代に但馬国司に在任していた源頼光がここに本拠地を構えていたので、その名残として曹洞宗・頼光寺をはじめ、「殿屋敷」「的場」「八王子」「大将軍」などの地名が残っています。
祭神 大己貴命
<気多神社由緒碑>より
鎮座:兵庫県城崎郡日高町上郷227
太古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。
新羅国の王子「天日槍(あめのひぼこ)」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾山頂から両者3本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。
天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命(おおむなちのみこと)」の神名で祭祀された。(播磨風土記)
国司文書によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
大化の改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻によって灰燼に帰した。
現社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に大修築を行い現在に至っている。現存する鰐口は応永三十二年(1425)の作であり、町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治六年郷社に列せられた。
境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社などが祭られている。
延宝5年(1677)近郷近在の大工たちが力を合わせて造った、杮葺入母屋造の本殿。気多郡内における神社建築の代表的な価値ある建物です。彫刻もため息が出るほど素晴らしい!。
拝殿