但馬国司文書但馬系譜伝では、高田郷久斗村兵主神社・気多郡久斗村に鎮座、祭神 素盞鳴神としている。
★『但馬国司文書但馬系譜伝』より
但馬国司文書気多郡古事記には、兵庫を造り、軍団を置き、ここに兵主神を祀り之を久斗村兵主神社と言うときしている。、
★『但馬国司文書気多郡古事記』より
久刀寸兵主神社の祭神は大国主命とし、その付記説明として次の事を記している。

『美方郡古事記』に「兵庫の側に、久刀寸兵主神社を祀る」とあり。 兵庫鎮守のためには、主として
武神を祭祀すべきに当社の祭神を以って国作りの神に充てるは甚だ心得ぬ沙汰なり。

更に、『但馬式社鎮座考』には「兵主神社素盞鳴尊成滝大明神高田庄久斗」とあり、即ち考ふるに
当社の祭神を大己貴命とせるは後世の誤りにして当社の祭神はおそらく素盞鳴尊なりしなるべし。

また、『但馬故事記』では当社
の祭神として、武速素盞鳴神、経津主神、武甕槌神、天忍日命、道臣命の五神をあげている。
★『日高村編郷土誌』(大正元年)より
奈良県磯郡纏向村大字穴師(旧地名)にある式内の名神大社・穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)に見られるように「久斗寸」は「久斗坐」(くとにます)の省音とも考えられる。
★「但馬国における神社鎮祭の特異性の考察」より
兵庫県神社誌には、祭神を大国主命としており、孝徳天皇大化三年(647)気多軍団に兵庫(やぐら)を設け、その鎮守として当社を創立し、中古以来鳴滝大明神と称したが、明治三年神社名を旧称に復したと記されている。

ちなみに、明治元年三月太政官の通達に「中古(神仏混合説、本地垂迹説等)以来、某権現、午頭天王の類等その他仏語を以って神号に相称し候神社少なからず候、何それもその神社の由緒委細に書付け早々申し出ずべく候事」とある。

この通達に従って従前三宝荒神、天王社等の神社がもとの神社名に改称された。
★『兵庫県神社誌』より
神社覈録では「祭神名を示さず、久斗寸は具登牟良(くとむら)と訓すべしとある。
★『神社覈録(じんじゃかくろく)』より
特選神社名牒では、祭神は速須佐之男命(はやすさのおのみこと)となっており、久刀寸は「久斗村」の文字が省略されて「寸」と書かれたもので、鎮座の地を久斗村というために明らかである。としている。
★『特選神社名牒』より
<祭神> 大国主命 品陀和気命

<由来沿革>
大化三年(647)、気多郡の軍団に兵庫を設け、その鎮守として当社を創立したと伝えている。延喜式には小社となる。中古以来鳴滝大明神と称していた。安政二年(1855)本殿を再建し、明治二年社名を旧称に復した。同四十五年八幡神社を合祀し、本殿を再建し拝殿を改築した昭和五十七年本殿、拝殿の檜皮葺屋根を銅板に葺き替えた。

<境内社> 
稲荷神社・粟島神社
<境外社> 
石龍(せきりょう)神社(日高町久斗字川端)
<石龍神社由緒>創立年不詳。稲葉川左岸に巨石が数個あり、その中に石龍(小蛇)が住み、時に姿を見せるが首尾はなかなか見せないという。雨乞いの神だといわれている。
★日高町史より  
<由来諸説> 神社名称や祭神について、また兵主神社についての残された文書をご紹介します      
久刀寸兵主神社
(くとわひょうず)
式内社
豊岡市日高町久斗字クルビ491

祭神は 素盞嗚尊(すさのおのみこと)  大己貴命(おおむなちのみこと=大国主命)
(日高町史では、大国主命・品陀和気命となっている)
江原の郵便局の交差点から神鍋高原に続く道の途中に道に面してあり、大正時代から昭和初期にかけては西日本最大の規模の郡是製糸株式会社(平成11年閉鎖)が近くにあった。

江戸時代には人形浄瑠璃『久斗文楽』があり、但馬内外で盛んに公演されていたらしい。
現在新しい道路が出来て神社前の道はめっきり交通量が少なくなった。
この道路の先にうちのおじいちゃんの実家がある久田谷があるのでよく通う道である。
拝殿とその後ろに本殿
とても見事な拝殿・向拝や木鼻の彫刻!
町指定文化財のけやき
境内社の粟島神社(左)と稲荷神社(右)
拝殿入口上の額


但馬国に鎮祭されている兵主神社と祭神の例
★兵主神社について『豊岡市史』より
この社名をもつ神社は式内社に限られ、しかも式内社中、その数が最も多く十八社ある。但馬では五社六座あり、全国の兵主神社の三割を占め、そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。

豊岡市域は兵主神社の数では全国一である。兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。
この中国大陸の神が日本で祀られているのは、漢人が奉じてきたものと考えられていて、但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。

ところが、兵主神社のある地方には漢人関係の伝説や史跡はほとんどなく、祭神は兵主神社であるよりも須佐之男命や大国主命が多いことから、荒ぶる神のことではないかともいわれている。

しかし、但馬の場合は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布しているので、やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。
大生部兵主神社 (豊岡市奥野) 素盞鳴尊
大生部兵主神社 (但東町薬王寺) 健速須佐之男命
更杵兵主神社 (和田山町寺内) 祭神不明
十六社神社 (和田山町林垣) 素盞鳴尊
兵主神社 (山東町柿坪) 大己貴命
兵主神社 (日高町浅倉) 大己貴命
兵主神社(二座) (豊岡市田鶴野) 素盞鳴尊
大己貴命
★兵主の神についての諸説(「但馬国における神社鎮祭の特異性の考察」より)
延喜式神名帳に登載されているいわゆる式内社に列した兵主神社が全国に十七社あるが、そのうち七社が但馬国に鎮座されており、その他に式内社でない兵主神社が七社もあることは他の地方には見られないことである。

「兵庫県の歴史」では、兵主の神はもと中国の山東省に見られる八主神、すなわち、天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時王の一つである異国の神であって、弓月君(ゆずきのきみ)が将来した神と考えられている。

したがって、
兵主神社を祀るところには弓月君系の帰化人の存在が予想される。
つまり、但馬には
新羅系の天日槍(あめのひぼこ)のほかに、弓月君系の帰化人も多くいたものと考えられる。

また、天日槍が一時住んでいたといわれる近江にも兵主神社が多く、天日槍と兵主神社には何らかの関係があるものと推論し、この点から、兵主神を外来神とみる説をとっている。

また一説には、
大国主神は、またの名を八千矛神(やちほこのかみ)といい、葦原の中津国を平定するに当たり、広い矛をもって邪神を誅し、治功をたてられた神といわれ、弓矢を司る武神として崇敬されてきた。このように日本の武神である大国主神や素盞鳴尊を兵主神として奉斎したものといわれている。

平安初期清和天皇の貞観年間(896)に新羅船が博多に侵冠したことがあり、これに対する防衛祈願から日本の神の風神、武神を兵主の神に改名したとする説もある。

要するに、「兵主」は神名であるが、兵主神社の創祀については、いまだ学説の定着を見ていない。
参考資料:久刀寸兵主神社昭和大修理記念の冊子より