女代神社   (式内社・旧社格は村社)
豊岡市九日市(ここのかいち)上町460-1
主人の仕事の手伝いの途中、待ち時間をどこへ行こうかな?と思っていたら、車を止めていたすぐ横が女代神社の鳥居だったのも奇遇。

昼の十二時。

ひっそりと静まり返った境内の中央に萱(かや)で作られた大きな輪が構えてあり、宮司さんに聞くと、今日(6月30日)がちょうど年に二回の大祓いで、特にこの「夏の大祓い」の時だけ、青青した萱で輪を作ることが出来るとのこと。夕方から輪くぐりとお祓いの神事でにぎわうそうだ。
<祭神> 高皇産霊神 <習合神号>女代大明神
 (茅の輪くぐり)
拝殿
本殿は修復中なのか鉄パイプで補強されており、近くには入れなかった。ガラスのケースに入っただいぶ古い時代らしき木製の狛犬が見えた。彩色が施してあり珍しい感じのするものだったので後から宮司さんに訊ねたところ・・・
先代の宮司さんが自分で色を塗ったとの事(><)
マリー・アントワネット風の豊かな巻き髪の狛犬
社務所の蟇股(かえるまた)
女代神社のある場所は(今は堤防を兼ねた道路が川との間にあるが)昔から良く水がつく場所なのに、すぐ向かいの家が床上浸水をするようなときでも、ここだけは絶対に水没しなかった・・・・
周囲が田圃の低地にありながら、けして水没しないので「浮島明神」という別名をつけられている。
水がすぐそこまで迫ってくる土地らしく寄進された木製の船があった。
本殿
本殿・拝殿の他に境内社が二つあった。
<稲荷神社> 祭神:宇迦御魂大神 ※写真上の茅の輪の向こうに見える社
<秋葉神社> 祭神:加具土大神   ※火伏せの神様
その昔、女代神社はこの地方に稀に見るほどの大祭儀を行っていたのだそうです。神輿も三基有し盛大に渡御していたのですが天正5年に社領没収となり、祭礼が衰微してしまいました。現在は神輿は一基ですが、近郷に比を見ないほどの重量でその重さは400貫もあるそうです。

明治年間三社(小田井神社・日吉神社・女代神社)協定により、毎年順番にて神輿渡御を奉仕することになりました。

<女代神社で頂いた由緒のパンフレットから引用>
 『式内 女代神社由緒』
    鎮座地 兵庫県豊岡市九日市上町460−1
    祭 神: 高皇産霊神


当社は延喜式神明帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。
円山川と出石川合流の西窪地田圃に囲まれ、数百年の老樹の繁げれる宮地なり。

御祭神は造化三神(天御中主神・神産巣日神・高皇産霊神)と賛えられ、高天原に存せられし神である。
往古祝融の災害により創立年月詳ならずといえども古社たる事明らかなり。

仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦851年)
往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人のひろく知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあるといえども、円山川氾濫に際して未だもって階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず。

豊岡領主・京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事、天和・元禄年間等一再ならず、僅かに数間の距離に於いて数尺の水の高低あると伝え聞く。

しかるに、天正五年(安土桃山時代)社頭没収せられそれがため祭祀衰えかつ寛永六年(江戸時代初期)神主住宅に社務所・宝庫焼失し当時の古文書ことごとく鳥有に帰し史料空し。
その後、明和三年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。

文化五年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜る
(由来神祇官西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には、白川・吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明らかなり。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものなり)