大鷲神社/祭神: 日本武尊・橘比売姫・長白羽命・天之日鷲翔命(あめのひどりのみこと)
厳島神社/祭神: 伊都伎島姫命
三峯神社/祭神: 伊邪那伎命・伊邪那美命
武雄神社/祭神: 武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)
船守稲荷神社/祭神: 宇迦之御魂命
老山福寿稲荷神社/祭神: 宇迦之御魂命
淡島神社/祭神: 大名持命・少名彦命
金刀比羅神社/祭神: 大山咋命(おおやまくいのみこと)・船玉大神
境内社
<木鼻>
叶神社の彫刻は建物のいたるところに、これでもかこれでもか・・という感じに施されていて、見ていて見飽きることがない。
写真を撮るのも忘れたくらい見とれてしまい後でデジカメから取り込んでみると見た半分も写っていなかった。
あまりの迫力に当てられて、拝殿正面の写真などもとり忘れてしまった。
これはもう一度行くしかない!
なにぶん遠方なので(山陰から横須賀は遠いですね)いつになるのかわからないけど是非また来てみたいと思った。
<拝殿入口部分の天井>
現在の社殿は天保13年に再建されたもので、本殿幣殿、拝殿は、一連の権現造りである。
本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の花鳥草木の彫刻はすべて極彩色となっており、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しという華麗な装飾がなされている。
幣殿墨絵の龍は、香雪斎円州の描いた傑作といわれる作品。
また、拝殿は花鳥草木の透かし彫りのある天井となっており74面ほどある。
社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。
これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。
<ふるさと横浜・横須賀の神社>
(西岸)叶神社
横須賀市西浦賀1丁目1-13
<御祭神> 応神天皇(誉田別尊)/神功皇后(息長足姫尊)
比売大神(海の神) 以上併せて八幡大神と称する
(西岸) 叶神社由緒
叶神社は養和元年(1181)文覚(もんがく)上人が京都の石清水八幡宮を勧請して造られました。
平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い、上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参篭し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し末永く祭祀することを誓いました。
そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから叶大明神と称するようになりました。
※「石清水八幡」と源氏
貞観元年(858)の夏、大安寺の僧・行教が、九州宇佐八幡宮に90日間の参篭中に「我王城の近くに遷座して、皇室を守護し国家の安泰をなさしめん。移らんと欲する処は、石清水男山の峯」という八幡の神託を受け、この事を天皇に奏請すると、清和天皇は木工権允橘良基に命じ男山に宇佐八幡宮に準じた六宇の神殿を造り、そこに八幡の神を奉安した。石清水八幡宮である。
以来、皇室をはじめ公家の篤い崇敬を受け、殊に清和天皇の流れをくむ「源氏」とりわけ源頼義・義家は格別に八幡の神を敬い、義家はこの石清水八幡で元服の式を挙げ、「八幡太郎義家」と称するに至った。
後に八幡の神は源氏の氏神となるのだが、文覚上人がこの石清水八幡の神を源氏再興のために祈念し、本願成就を願ったという理由は、以上のように以前から八幡の神と源氏の崇敬という結びつきがあったからに外ならない。
※文覚(もんがく)上人
文覚上人は、後白河法皇に対して高雄山神護寺再興のための寄進を強要した罪により、伊豆国に流刑となった。その伊豆在住の間、平治の乱で破れ捕らえられて同じく伊豆・韮山蛭小島に流刑となっていた源頼朝のもとを訪れ、頼朝に「源氏再興」を強く鼓吹した。
(自ら源氏再興を祈願して鹿野山に参篭し修行を重ね、本願成就して叶神社を建立した経緯は上記「由緒」のとおりである。)
※叶神社の歴史
文覚上人のあと、この神社の管理のための別当として、代々真言宗古義派(高野山系)の僧侶が置かれた。
この八幡の神は源氏の氏神として、その武神的性格のほか、原初的性格として海の神の信仰も併せもつ。
叶神社の場合、その鎮座地が中世末戦国時代以来、港として繁栄してくると、まさに海上安全守護の神として、浦賀港に居住する人々や、海に生きる人々の篤い崇敬と深い信仰を受けるようになった。
江戸時代に入ると、江戸に向かう船、江戸より諸国に赴く船の管理・統制上、江戸の入口に位置する浦賀港に、幕府は下田から奉行所を移転させるに至る。
享保6年(1721)2月、浦賀奉行所が開設され、叶神社は代々の浦賀奉行の篤い崇敬を受け、春秋二回の大祭には奉行自らが参詣・幣物を捧げるのがしきたりになった。
中でも、第12代浦賀奉行・仙石治左エ門政寅は、当社を敬うこと厚く、叶神社の神徳を広く世の人に知らしめんとして諸記録を調査し、由緒を扁額に撰書して奉納した。
※(西岸)叶神社と(東岸)叶神社
かつては浦賀港両岸が一つの生活圏であり、その浦賀の総鎮守がこの叶神社であった。そして創建800年の伝統と誇りと、その深甚な信仰は両岸の氏子共通のものだった。
元禄5年、江戸幕府の政策によって、一つの浦賀は東西の村に分けられ行政区域が分離すると、それぞれに独立した村意識も生じ、長い間氏子として神徳を仰ぎ戴いて来たことで、東岸にも今までどおり同じ御神徳をと願う心から、東岸にも叶神社を造って分霊祭祀となった。
そして二つの叶神社は浦賀港の相対応する位置に所在し、西岸からは東の、東岸からは西の叶神社の鳥居が、各々緑濃き山を背景に望まれ、両社同じ御祭神の神徳が浦賀の町に、港に更には港内の諸船舶に行き届き及んでいる。
写真左:(西岸)叶神社から見た「東岸 叶神社」 右:(東岸)叶神社から見た「西岸 叶神社」
神社創建八百年祭実行委員会編『叶神社誌』より
拝殿扉のガラスケースで保護されていた彫刻
<老山福寿稲荷神社>
<金刀比羅神社>
拝殿正面から右手へ境内を進むと、まず<老山福寿稲荷神社>の白い建物がある。
その左に<武雄(たけお)神社>、さらに左に石段が山の中へと続いていてしばらく登ると<金刀比羅神社>がある。金刀比羅神社は僅かな敷地面積だが、鬱蒼とした木々の茂みの中にあって、丸窓のように浦賀湾が見える。暗い森の中で見る額縁のような浦賀湾が実に美しく感じられた。
<金刀比羅神社入口(左)と武雄神社(右)>
金刀比羅神社の石段の前を奥へ進むと、赤い鳥居のある境内社覆い殿が建っている。
中には淡島神社/大鷲(おおとり)神社/厳島神社/三峯神社/船守稲荷神社が祀られている。
さらに境内の奥、突き当りには、<福寿弁財天がある。
鳥居をくぐって石段を上がった拝殿の前に一対の狛犬がいるが、珍しい事にすぐ足元の玉垣のすみっこに子供の狛犬が隠れていて、顔だけだして覗いている。
なんとも可愛らしく、ユーモラスだ。
紺屋町バス停近くにある参道入口の大灯篭
<手水舎>
江戸時代に江戸屋半五郎が寄進した手洗石がある。手水舎の建物は近年創建800年祭に当って改修されたものだそうだ。後藤利兵衛ではないが、ここにも彫刻がたくさん施されている。
なお、この手洗い石に名が刻まれている江戸屋半五郎は、浦賀において江戸屋という屋号で娼家を営んでいたが、のちに常福寺の光誉上人の弟子となり世の無常を知って、自ら芸妓・娼婦を解放し、財をゆかりある者に分配して出家し徳本行者を慕って深本と名乗って諸国霊場を巡り、晩年浦賀に帰ってきて文化6年、念仏を唱えつつ世を去ったという。
手水舎の彫り物
社務所玄関上の漆喰壁画