神社前の坂は、横須賀村と言われたころまで、浦賀道に通じる主要道路だった。八幡山の名で親しまれている裏山は、古谷(こや)山が元の名称だが、明治初年、大津にあった佐倉藩の陣屋を解体して横須賀製鉄所(後の海軍工廠)に移したとき、陣屋内にあった八幡宮を横須賀製鉄所の鎮守として古谷山に祀ったところから八幡山と呼ばれるようになった。

頂上近くから神社の裏手に接する区域は諏訪公園になっており、明治33年、当時の皇太子であった大正天皇の御成婚を祝って公園化事業が進められ、明治45年に完成。
かつては熊や猿などの小動物が飼われていた他、小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像や海軍工廠殉職職工の招魂塔が建てられていた。


明治40年の市制施行直後には、山頂に八幡山小学校が、ヨゼフ病院のところに諏訪小学校と市役所があり、まさに文教地区の観があったという。
社殿の背後には、諏訪公園があり、明治45年(1912)に開園され、三浦半島にここにしかないめずらしい大木もあり、横須賀軍港を眼下に一望できて市民に親しまれ、市街地の背後にあって緑豊かな自然のオアシスを提供している。

祭礼は毎年、5月の最終土、日曜日に若松町の諏訪神社と同日に執り行われ、諏訪大神社が横須賀米軍基地の氏子区域に属していることから、市長と共に米軍司令長官も神輿連合渡行に参列し、祭礼を通じて市民と在日米軍との友好を図っている。
横須賀市緑ヶ丘34
諏訪大神社 (すわおおかみしゃ)
祭神/健御名方命(タケノミナカタノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)
創立/康暦2年(1380年)3月23日

<ふるさと横浜・横須賀の神社>
2週間ほど里帰りをして横須賀に滞在したので、私の生まれた横須賀中央のヨゼフ病院周辺を歩いてみた。何十年ぶりのことだった。記憶の中の風景は随分と自分なりに脚色されていて、実際のヨゼフ病院はどこにでも在りそうな普通の総合病院に見えた。
しかし、急な坂道と背後に山の迫る立地や三笠通り・ドブ板通りから目と鼻の先にありながらの静けさは思い描いていたとおりだった。



ヨゼフ病院のすぐ隣に諏訪大神社のお社がある。
樹齢何百年かの大木が点在し、周囲は八幡山(古谷山)の緑に包まれている。都会の中の神社ではあるが、まさに聖域なのだという厳かな感じがする場所である。

境内を丁寧に掃き清めておられた畑宮司さんに親切に説明をしていただき、なかなか見ることが出来ない本殿の中や、境内社覆屋にも入れていただいた。

実家にかえり、母に諏訪大神社の話をしたところ、なんと!私の両親の結婚式を挙げた神社だと言われ驚く。母も懐かしそうに古いアルバムを持ち出してきて現在の写真と見比べた。
昭和55年に創立600年に併せての改修工事がなされ、多少変化したところもあったが、全体の雰囲気は昔も今もかわらなかった。
不思議な縁を感じ、横須賀にまた一つ私のお気に入りの場所が増えた。
かつての三浦四十八郷の総鎮守として、その由緒とたたずまいを今日に伝える諏訪大神社の創建は足利義満の頃の康暦2年(1380)で、三浦氏の三浦貞宗が古谷山(こややま)横須賀城(長峰城)の城口に当るこの地に、信州の諏訪大社より上下の両諏訪明神を勧請したことに始まる。

江戸時代の初期に、三浦一円の農政を管掌した代官、長谷川三郎兵衛により、農漁業の守護神を祀る神社にふさわしく大改修された。

現在の社殿は、明治24年(1891)に建て替えたもので、第二次世界大戦で社殿も傷み、昭和55年(1980)の創立600年に併せて改修し今日に至る。

諏訪神社は全国各地に多く鎮座しており、御祭神は健御名方命(タケミナカタノミコト)が普通だが、諏訪大神社は商業漁業の神である事代主命(コトシロヌシノミコト=えびす様)もお祀りしているのが大きな特色でもある。
諏訪大神社の由諸

横から見た拝殿と本殿、そのつなぎの部分に幣殿。
■ 健御名方命(タケミナカタノミコト)
事代主命(コトシロヌシノミコト)の弟でニ柱共に大国主命(オオクニヌシノミコト)の御子である。健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。

元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬された。

もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。上諏訪から勧請し、ご神体矢に神霊を祀ってある。
■ 事代主命(コトシロヌシノミコト)
事代主命は、北九州博多から出発し丹波・丹後地方を範囲とした漁猟部族の蜑族(たんぞく)の祖神である。
蜑族は、航海と漁猟を得意とした部族なので、自然と貿易によって富裕となった。この祖神・事代主命はえびす様ともいって漁業や商業の守護神として祀られるのはそのためである。

蜑族は、富山から姫川を遡って上高地の下の旧湖水で生活していたが、後にサイ川をさき切ってここを干潟して農地としたので農業神としても崇敬された。
ここから諏訪湖に移って水上生活をした部族である。

事代主命は、下諏訪から勧請して、ご神体玉に神霊を祀ってある。
健御名方命、事代主命は、日本先住民族・蝦夷を征服して、出雲という部族連合国家を建設し、日本古代国家の基礎を築いた方である。

<参考>
諏訪大神社参拝の栞/神奈川県神社庁・神社検索/横須賀市内神社各説(氏子総代会編)

 境内社
平成の大改修により、1999年(平成11年)境内社6社を納めた覆殿が完成した。
■ 伊勢皇大神宮
■ 東照宮
■ 天王宮
■ 大鳥神社
■ 天満宮
■ 稲荷社
伊勢参りが全国的に盛んだった頃、一生に一度の伊勢参りが出来るか否かの時代で、交通の手段もなく伊勢参りが出来ない方も多く、この地で伊勢神宮を遥拝できれば・・・という願いから造営されたもの。現存の社は、ペルリー来航の少し前の嘉永2年(1849)の社である。

<伊勢皇大神宮>

<東照宮>
御祭神は日光の東照宮と同じ徳川家康公を祀り、徳川幕府の末期の天保15年(1844)に建立されたもの。社も今日に現存している。徳川幕府の末期に家康公の篤い信仰から祀られたもの。
←写真:左が東照宮・右が天満宮
<天満宮>
菅原道真公を祀り学問の神として崇められている。
正徳3年(1713)に再建されて今日に至る。毎年正月には受験生が祈願のため多数参拝する。


<天王宮>
京都の三大祭りで有名な八坂神社から勧請したもの。享和3年(1718)に再建。
横須賀でもこの当時疫病が流行し、多くの人が亡くなった。医学の未発達な時代、疫病は怨霊と考えられており、鎮めのために勇敢な神である素盞鳴命(スサノオノミコト)を勧請した
↑写真:右から、「天王宮」 「稲荷社」 「大鳥神社」

<稲荷社>
御祭神は倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)で、元来は農祖神である。
農耕を主とする日本において稲は大切な食料であり、その年の豊作を祈願して2月の最初の午の日に初午がある。後に商業の神としても崇められ今日に至っている。元禄15年(1703)の再建。当時の農業及び商業の隆昌を祈願して祀られたもの。

<大鳥神社>
酉の市で有名な神社で横須賀では若松町の諏訪神社で歴史がある。
当社にも天保15年(1844)に再建され、商業開運の神として祀られている。
狛犬・石碑・灯篭・・・・境内あれこれ

道路から最初の石段を上がると鳥居の左右に狛犬がいる。
関東大震災の被災時に多くの人がこの境内にも避難し、持ち込んだ家財道具に火が付いた事から石造の狛犬も火炎に包まれた。向って右の狛犬にはその時の破損を補修した後がみられる。
写真右端は大震災避難記念碑。神社が高台にあったことから400人余りの人がこの地に避難してきたという。

この狛犬はちょっと変った風貌をしていた。一口に狛犬と言っても形は驚くほど多様であるが、ここの狛犬は(境内社覆殿前の等とくに!)特徴がある珍しい形だった。
↑写真は二体とも境内社覆殿前の狛犬。私の持っている狛犬の概念を見事にうらぎるユニークで愛嬌のある、また小柄ながらも勢いのある風貌!とても気に入ってしまいました!ガッツだぜ!
↑写真二体とも境内社覆殿前の稲荷社のキツネ像。
ホント!ここの狛犬やキツネはチャーミングだった。普通お稲荷さんのキツネはちょっと妖気を帯びた雰囲気で眼光鋭い感じがするのだが、このキツネは一言で言えばほっそりとした美人でやさしそうなのです。
左:鳥居をくぐり、社殿へと登る石段の下にある頭部のまるまるした灯篭。
ありそうで結構珍しい形だと思う。見ていると気持ちが安定しそうだ。
右;拝殿前の大灯篭。大変に端正な姿の美しい灯篭だった。
<ホルトの木>
鳥居のすぐ横のホルトの木と書かれた大木はオリーブに良く似た実をつけるため、オリーブを指す「ポルトガルの木」から変じて「ホルトの木」と呼ばれている。
俗称はなんじゃもんじゃの木。

なんだ!それならうちの村のお宮さんの前にもあるな・・・と親しみを持った。しかし、我が村のなんじゃもんじゃは何年かに一度しか花を咲かせないのに、ここのは毎年たくさんの花をつけると言う。

境内には他にももっともっと大きなホルトの木が5〜6本もあって、見事な枝振りを見せている。神社周囲の山は巨木群とも言えるほど大きな木が多い。
石段下のヒマラヤ杉。
その近くにも大きなクスノキがあった。
クスノキは樟脳をとる木なので、その葉をもむといい香りがするそうだ。
<ヒマラヤ杉>
横須賀の往古は山と海との間に延びた長い砂浜に数戸の草屋根を葺いた一漁村であった。
それが桓武天皇の皇子葛原親王が国家鎮護のため東国に下って以来子孫が定住し、地方の豪族として勢望を築いた。
その一族三浦党を起こすや、近国の人士多数が傘下に群集し、横須賀及び近傍はたちまち賑やかになった。

当時信州諏訪神社は、北条家の崇敬篤く、三浦家ではその奉幣使としてたびたび代参した。
その時従った武将で横須賀を知行していた者が信州上諏訪を勧請して来て領内の現所に祀り、武運長久繁栄の守護神とし盛重に祭祀を修めていた。

従って上にならい領内近郷の崇敬もまた篤かった。

後に子孫の三浦貞宗が康暦2年3月、祖先の志を継いで改築し祭祀を盛んにしたが、三浦党滅亡後は郷民の手で直接に経営維持されていた。しかし、乱世戦国時代に入って、このことも止むなく隠滅し社頭全く荒廃してしまう。

慶長8年(1603)徳川家康に将軍宣下して慶長11年(1606)、平和な世になったので、代官・長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改築を行い、農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。(寛永8年・享和2年の版文による)
その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかった。(歴代の棟札文による)

明治以来も崇敬者は変らず、その結果、明治6年(1873)12月、明治政府より村社に列格され、明治40年(1907)4月30日、幣帛供進指定社となった。

続いて昭和3年(1928)5月21日、郷社に昇格した。

更に昭和17年(1942)、内務省神祇院十七総第二号通牒をもって、県社昇格の内許をうけ氏子で指定改築工事中に終戦となった。

戦後宗教法人のもとで、昭和22年5月16日、氏子会が発足し神社を氏子の手によって維持し今日に至っている。

諏訪大神社の歴史
※参考・・・・神奈川県神社庁/神社検索より
三浦貞宗と夢窓疎石
本殿の左、境内の奥にある小さな社は「夢窓国師」を祀っています。

三浦貞宗は夢窓疎石と親交があり、一族の貞連は元応元年(1319)、長峰城から見下ろす横須賀郷白仙山に泊船庵(今の米海軍基地内)を建て、夢窓疎石を招いている。

夢窓疎石は建武2年(1335)10月、後醍醐天皇から国師号を賜った高僧で、将軍足利尊氏に、後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺(京都市嵯峨)を創建させ、のちに三代足利義満の請いにより金閣寺の開山となり、臨済宗の黄金時代を築いた僧である。

このような高僧を外護した三浦氏の財力と教養をうかがい知る事が出来る。

             「三浦半島の史跡みち」より