宿南修理太夫 光明寺に於て自害の事
付、山名の滅亡に付 当国の小城主開退く事
宿南の城主修理太夫輝俊は、折節病気にて城に引き篭り、二人の子を戦場に向はせ、幼少の子供を連れて城中に在りしが、味方敗北して村下なる岩山の麓へ控へし由注進しければ歯がみをなして起きあがり、

「口惜しき次第かな。かかる苦戦に出合ひ空しくなりゆかん事の恨めしさよ」と、

病気ながら甲冑を帯し、弓矢を携へけれども、歩行叶はざれば、少々残り止まりたる家来に下知し防がんとしけれども、乱れ入る事火急にしてときの声間近く聞こえれば、館に火をかけ城の麓なる光明寺へ馳せ行き、幼少の男子二人を家来に渡し、

「汝これを連れて何方かへ身を隠せよ。戦場へ向ひし二人の兄は定めし討死せしならん。早とくとく」

とありければ、近臣片山五郎左衛門が父兵右衛門、老体なれども武勇優れし者なれば、豊若十一歳、国若八歳なるを左右に脇挟み、光明寺の後なる山を越えて奥深谷と言ふ里へ隠れしとかや。

輝俊は鎧を脱ぎ捨て、本堂へ坐し、本尊に向ひ仏名を唱へ、腹かき切って果てられける。

これに続いて自害せし男女二十余人とぞ聞こえける。

さて重郎左衛門兄弟は、かくとも知らず敵の追ひ来るを待ち、一計策を行はんと伏兵を隠し待ちたりしが、はや我が館へ火をかけたれば、さては落城せり。

父の身の上心もとなく、舎弟直政に謀を示し置き、朱に染みたる馬を引き寄せ、城をさしてただ一騎乗り帰さんとせしが、家来馳せ来って
「御父君始め、皆々様、館を立ち出で、光明時にて御自害あり。寺にも火をかけ候」と云ふ。

早一片の煙と立ちのぼりければ力なし。
されども、敵定めて此所へ追ひ来らずと言ふ事あらじと、静まり切って居たりしが、敵は此所へ寄せ来らず川東へ引きとりければ、謀策案に相違す。

「最早これまでなり。父に追ひ付き申さん」と兄弟山林に馳せ登り、腹かき切って死したりける。

五十騎ばかりの味方は、残兵を集め、水上の城へ立て篭もる。輝直兄弟に付添ひたる片山五郎左衛門、大嶋勧解由、そのほか討ちもらされし譜代の郎党、兄弟の死骸を隠し、山を伝ひて光明寺へ馳せ行き見れば、早ことごとく焼け落ち、灰塵となって
尋ぬべき人もなければ、詮方なく生害して失せたりける。

表米親王九百十五年天正五丁丑の年、宿南落城す。

この時、寺社も断滅せり。浅ましかりし次第なり。

片山兵右衛門は二人の幼君を助け、山中に隠れ住みしが、後に民家に降りて宿南の里に留り、今にその子孫ありとかや。

それより羽柴美濃守は浅間の城を捨て置き、出石郡に押し寄せ、子有山の城を囲む。

大主・山名右衛門督脇豊、城郭を堅め立て篭もり、出て戦はず、所々の要害に立て篭りたる味方、隙を伺ひ折々夜討ちをなし、羽柴勢の兵糧を奪ひとる。

羽柴、数度戦ふといえども、当国の武士、案内詳しければ、たやすく子有山を攻め落し難く、日を送る内、所々の小城主一度に起こり、四方より攻め寄せ、城の後詰せしかば、美濃守散々に敗北し、軍勢を集め米地山(めいじやま)を越え、播州へ引き退く。

藤堂高虎は七味郡村岡を乗取り、此地に立て篭り、合戦数度に及ぶ。七味、二方の味方は、田公美濃守が家臣・小代大膳、杤谷の小城主・塩谷左衛門助、上月悪四郎、冨安源内兵衛、数百騎小代谷へ立て篭り、要害を構へて防ぎ戦ふ。

或る時、高虎手勢を引き具し小代を囲む。七味勢この由を聞き、所々に手分けをなし、山林に埋伏す。
高虎これを悟らず、小代をさして攻め寄せしを諸方の伏兵一度に起こり、藤堂勢を包み、短兵急に攻め戦ふ。

高虎、名を得し勇士なれば少しも動ぜず、諸軍を下知して一方を切破り、囲みを出でんとせし所に、小代谷より塩谷左衛門、上月悪四郎、小代大膳、冨安源内兵衛など萬歩不当の者ども五十余人切入れば、藤堂高虎散々に敗北し、一騎がけにて大屋谷へ遁げ来り、加保村在住の郷士・栃尾加賀守ならびに子息・源左衛門を頼み隠れ居て、密かに味方の残兵を集む。

この由を隣村・瓜原村の長尾瓜原新左衛門、小代に注進す。

これによって小代の勢、横行山に立て篭り戦ふ事度々なり。
然るに天正八年羽柴筑前守秀吉、再び大軍を引率し、西播磨より明延山を越えて当国へ攻め入る。

この時小代の味方、残らず滅亡せり。

それより秀吉、上小田村に憩ひ、所の町民・斎藤谷左衛門が家に宿し、気多郡水上城を攻むる由聞こえければ、味方ひそかに谷左衛門に通じ、秀吉を欺かしめて討つべき謀を示しけるが、羽柴の威勢に恐れ同意せず。

是によって垣屋の諸士会議しけるは、先立て美濃守秀長、宿南の城を落とせし時、浅倉の嶮路におびき寄せ討ちとらんと謀りしに、佐々木義高、橋本兵庫一戦にも及ばずして各々が城に立て篭りし故、敵かの地へ来らず出石へ攻入り、気多両郡にて合戦数度に及ぶといえども、子有山の要害堅固にて攻め落とす事叶はず、宮内台の合戦に敗北し、散々になって本国へ引き退く。

然るによって秀吉大軍にて攻め来る。

味方これまで数度の軍に疲れたる困兵を以って、大軍、羽柴が勝ち誇りたる数万の猛勢に当らん事、千にも勝利あるべからず。
その上、七味郡小代の味方も残らず滅亡せしと聞こゆ。
この上は味方偽りの謀を以って秀吉を欺き討つべし。

筑前守、水上の城を攻めんに、是非宿南より岩中へ通るべし。
先規も内々はかりし如く、宿南と岩中の間なる岨道こそ屈強の地なり。上に巌窟にして下は深淵なり。

かの山に兵埋伏し城中の諸士、城を明け宿南の野に出で、降を乞ひ水の上の(水生)城に案内せば、秀吉かの岨道を通行せん。

その時、伏兵一時におこり、用意せし大石を霰の降るが如く転ばし、軍兵前後より挟んでこれを討たば、秀吉を滅ぼさん事、案内なるべしと、ひそかにその術をなしけるが、秀吉は智謀凡人の及び難き名士なれば、かねて所々に忍びの間者を遣はし置ける故、既に宿南野にまでおもむきし時、この謀を聞き、俄かに東に廻り伊佐野に趣く。

この時浅間の小城主・佐々木義高、武具を改め、礼服にて出迎へ、地に平伏して降を乞ふ。

これより近江守を案内者として子有山の城を攻め落とし、狭間坂を越えて水の上の城(水生城)を攻む。

城中には謀、すでに相違しぬ。山名昭豊は子有山を落ちて、因州へ退去せしと聞こへければ戦ふに力なく、軍将垣屋駿河守を始め、諸士皆討死す。

駿河守の子息二人ありしが、兄弟一方を切り抜け丹波の方へ出奔す。
その後嫡子は紀州へ仕へ、次男は脇坂へ勤仕せり。

山名中興の宗、宮内大輔源時熈(みなもとのときてる)、明徳の頃、但馬の国牧に配せられしよりここに至て七世、その間二百二十余年、天正八年、右衛門督昭に至て勢ひ衰へ国滅ぶ。

さても宿南に蟄居して義心を立てし田垣信豊の子孫は一度民家へ降るといえども、末世に子孫、武門に出で、災難却って幸福となりしは、父祖の善悪は子孫に報ふと言う言葉(ことのは)、実(まこと)なりけるかな。


          掃部狼婦物語 下巻 大尾