<暗い日曜>についての記述

・・・(略)・・・ダミアの咽喉から後頭部を周って鼻に抜けるバスがかったアルトで、ぐいぐい抉(えぐ)るように歌われると、たちまちその場にどす黒い空気が立ち込め、黴と屍の臭が漂いだす。迫り上げ揺すり下す呪文詠唱、ピアフの電話帳どころか、この歌いっぷりならアルファベットを逆さにあてがっても聴き手の心を滅入らそう。

かてて加えて悲恋の女の遺言風の恨みつらみが縷々と続くのだ。
最初のsombre dimanche(暗い日曜)から既にただごとではない。
鼻にかかるので「ソンブル」が「オンブル」に響く。 sが抜けても暗黒(オンブル)・亡霊(オンブル)・招かぬ客(オンブル)・・・不吉な事に変りはない。

Je suis entree dans notre chambre le coeur las
   <私はうらぶれた心で部屋に戻ってきた>
この一行の歌い方が傑作だ。
「ジュシュイザン・トゥレダンノ・トゥルシャンブル・ルクール・ラ」、迫真的、あたかも喘ぎ喘ぎ安アパートの階段をのろのろ上って行く趣は、聴く方の息が苦しくなる。

En ecoutant hurler la plainte des frimas・・・・
   <木枯しの叫びを聞きながら>
第一節終行もまた同じ、さらぬだに鼻にかかる声はここで一段と強調され、「寒季(フリマ)」のmaは耳に突き抜けながらぼうぼうと尾を引き、
消えた一瞬止めのsombre dimancheが血の凝(こご)りさながらにどろりと置かれる。
特に dimancheのdiは、その血を躪(ふ)むかに、ねじった発音だ。

第二節瀕死の女の哀訴はこれでもかというように、執念深く追い討ちをかける。
最終行、一節の木枯しに相当するところは、
Ils te diront que je t'aimais plus que ma vie
   <私の命よりさらに貴方を愛していたと告げよう>
であり、ロシアはアフォンスキー合唱団の呪詛ともつかぬ濛濛たる遠いコーラスがからみ、終わり三行がダミアの声で繰り返されそして終る。
歌は二節。三節あったらくどくてやりきれまい。
・・・・・・(略)
■塚本邦雄著『薔薇色のゴリラ』人文書院より・・・・「失楽園の巫女  ダミア論」から抜粋
シャンソン・ド・パリシリーズ第5集「ダミア」
17才半のとき、ダミアはマックス・デアリー(1874〜1943)に逢いました。本名をリュシアン・マックス・ロランというこの男は、もともとは歌手ですが、1909年に、ミスタンゲットと組んで、ヴァルス・シャルペー(アパッシュ・ダンス)という激しい踊りを発表し、大成功を収めました。
そして、そのロンドン公演のパートナーに、ダミアを選んだのです。

帰国後の、1911年、彼女は、ペピニエールというキャフェ・コンセールに出演しました。これが、歌い手としての正式のデビューでした。
ついで、1ヶ月後には、プチ・カジノでうたいました。

当時のダミアは、髪をこてで縮らせ、金色のふち飾りをした赤い衣裳に身を包み、まがい物の宝石をいっぱいつけて舞台に立っていました。それをやめさせたのは、マックス・デアリーと、有名な劇作家のサッシャ・ギトリでした。

ギトリは言いました。「どうして君は、蚤の調教師みたいな衣裳を着るんだい?」
そこでダミアは、ヴァルス・シャルペーのために作った、黒い服をとり出しました。
重々しいそのスタイルによって、当然彼女のレパートリーも制約されます。

ダミアが一世一代のシャントゥーズ・レアリストになったのは、この服のおかげかも知れないのです。

その又3ヶ月後、彼女はアランブラ劇場に出演し、大成功を収めました。
パリの一流の劇場から、次々に声がかかりました。1914年から1918年までの第一次世界大戦中は、「コンセール・ダミア」と名づけた小劇場を根城に、活躍をつづけました。彼女は好んで「死」を歌いました。とくに名高い「かもめ」は3000回以上も繰り返して歌ったということです。

ダミアは又、ミュージック・ホールのトゥール・ド・シャン(ショウの1部を一人で受け持ってうたうこと)に、革命的な変化をもたらしました。
黒い衣裳で押し通し、闇の中でスポットライトを浴びて歌うのです。
その歌にマッチした、効果的なライティングでした。
こうして1949年ごろまで、ダミアの全盛時代はつづきます。
このころになると、シャンソン・ノワール(黒い深刻なシャンソン)は、衰えてしまったのです。

その間、1943年に、彼女は黒い服でシャンソン・レアリストをうたうのをやめ、白い衣裳で扇を持ち、より明るい歌に変えたことがありましたが、1946年に又もとのコスチュームに戻りました。
それほど、ダミアのイメージは黒い衣裳とかたく結びついており、大衆はそれ以外の彼女をみとめようとはしなかったのです。
1949年、ダミアは「プレイエル音楽堂」で、「シャンソンの30年」と題するリサイタルを開き、エトワール劇場でトゥール・ド・シャンをおこないました。
その後もしばしば劇場に出演し、1953年には日本を訪れましたが、やがて第一線を退いてゆきました。

■歌手ダミアの軌跡
ダミアは、本名をマリーズ・ダミアンといい、1892年12月5日、パリの生まれ。父はj巡査をしていましたが、家は貧しく、彼女は幼い頃から奉公に出されました。
仕立て屋、印刷屋、楽器工場などを転々としました。しかし、どうもひとつ所におちつかず、すぐに職場をクビになって、すんでのところで娼婦にされかかったこともありました。
芝居小屋のあたりをうろつき、シャトレ座で端役をもらったりもしました。


このダミアに歌うことを教えたのは、フレールの発見者でもあるロベルティでした。歌い手だった彼は、ダミアを仕込んで、ゲーテ・モンパルナス座でうたうようにとりはからいましたが、これは完全な失敗でした。
■ダミアの生い立ち
ラルースの「シャンソン事典」には次のように説明されているそうです。

『シャンソン・レアリスト―シャンソンのジャンルのひとつ。そこではテーマ(たいていは恋)が、ドラマチックな(あるいはメロドラマチックな)手法で発展し、多かれ少なかれ現実の庶民生活のもっとも暗い面が、リアリティーを重んじて描かれる。好んで取り上げられる主人公は、心の豊かな娘、やくざな男、船乗り、兵士、(特に外人部隊や植民地隊に属する兵士)。好みの舞台は、物悲しいあるいは物騒な下町、港、小さなバル・ミュゼット(場末の踊り場)、夜の霧。』


このジャンルは、19世紀の末ごろから非常にポピュラーになり、数え切れないほどの曲が作られた。
中には、レイモン・アッソ、ミッシェル・エメール、アンリ・コンテ、エディット・ピアフ、ミッシェル・ヴォーケールらのある作品のように、明らかに一種のポエジーに満たされたものが見出される。


悲惨な物語をパセティックに表現する、すぐれたシャントゥーズ・レアリストの魅力的な歌声は、人々に共感をおぼえさせずにおかない。
この種のアーティストでは、エディット・ピアフ、マリー・デュバ、ダミア、フレール、ベルト・シルヴァ、ルネ・ルパ(もっとも、その多くは、このスタイルだけに閉じこもっているわけではない)が有名である。


今日の歌手の中では、ミレイユ・マチュー、ジョルジェット・ルメール、とりわけ、ピア・コロンボを例にあげることができよう。
しかし、その大きな特色は、レパートリーが声にあわせて選ばれていることである。
つまり、それに類するものはあっても、名実ともにそなわったシャントゥーズ・レアリストは、現在は既に存在しなくなったと言えましょう。

そして、その最大のスターがダミアでした。
■シャントゥーズ・レアリストとは・・・
シャンソン・レアリストについて、初めて知ったのは、学生時代に乏しいお金の中から毎月一枚楽しみに買っていた東芝EMIの廉価版のシリーズ「シャンソン・ド・パリ」の第5集『ダミア』に出ていた永田文夫さんの解説による。
このシリーズは1300円という買いやすさだが、原語と日本語の丁寧な対訳に加えて、永田さんの解説がわかりやすく、詳しいものだった。

この解説に手を引かれて、次々と別の歌手への興味が湧いた。
以下、この今は廃盤になってしまったLPシリーズの解説より抜粋してご紹介します。
■懐かしき「シャンソン・ド・パリ」シリーズ・・・
1.暗い日曜日
試聴コーナー(聞こえてくるまでにちょっと時間がかかりますが・・)

戦前3大シャンソントゥーズ・レアリスト(現実派女性歌手)と言われた、ダミア、フレール、イヴォンヌ・ジョルジュの中でも、最も有名なそして日本人にとっても大変なじみのある歌手です。彼女によって、「暗い日曜日」「かもめ」「人の気も知らないで」などの曲が日本に紹介され、「暗い日曜日」は1936年(昭和11年)、「人の気も知らないで」は1938年、いずれも淡谷のり子のレコードで大ヒットしました。

私が買ったシャンソンのレコードの三枚目でした。(一枚目は「ミスタンゲット」二枚目は「イヴェット・ギルベール」・・・・)それまで抱いていたシャンソンのイメージに最も近かったのがこのダミアで、それは、知らず知らずに植え付けられた
、暗く哀しい・・・・・というシャンソンの印象が、取りも直さず、この人の持ち歌の浸透によってであったからだろうと思われます。それほど、日本の当時の歌謡曲にも、大きな影響を与えた人だったのです。

つい先日見た映画「暗い日曜日」は、ダミア最大のヒット曲「暗い日曜日」の誕生にまつわる三人の男女の悲しくも暖かい心の結びつきを描いた素適な映画でした。
(1892〜1978)
D A M I A