20代半ばの作品と言われるこの自画像を見ると、何だかグウェンの印象が揺さぶられる。内向的で人前に出る事を極端に嫌った彼女や、静寂を強く感じさせるその作品とは違和感がある。

20代半ばを仮に、25歳と数えたなら、・・・
運命の出会いとも言うべき、ロダンに会う前のことだ。
ロダンにあった事で、彼女は光を知り、光が閉ざされる影の中をさまよう事を知らされた。

苦悩の時が彼女にもうじき訪れようとすることなどこの時のグウェンには知る由もない。

イギリス人らしい風貌は、色気はないがなかなかの美人だと思う。
『自画像』20代なかば

ムードンのテルヌーヴ通りにあった彼女の屋根裏部屋で描かれた室内画の一つ。グウェンのパトロンだったジョン・クィンは彼女にこう言った。
「私が作品に興味をもつ女流画家は、あなたとマリー・ローランサンの二人だけです。あなたがたは女性らしい絵を描きますが、多くの女流画家は男のように描こうとし、そのためろくな絵が描けないのです。」

果たしてそうだろうか?

むしろ私は、繊細さは男性に、思い切りのよさは女性の気質のように思っている。

この静かな室内画にしても、じっくり観察したあと、描く段になると、どの部分も躊躇なく、1度塗ったきりで、上に加筆した所はまったくなかった。

迷いがまったくないのである。

迷いのなさは、自信というよりは諦観に近いにせよ・・・。

どこかでみたようなきがするな・・・と思っていたら、不意にヴュヤールの絵が浮かんだ。洗練されたナビ派とは気持ちのあり方は違うのだけれども・・
『クローイ・ボートン・リー』1910年
『ティーポット』1915〜1916ころ

これも、クローイ・ボートン・リーをモデルにしている。エレン・セオドーシア・(通称・クローイ)ボートン・リーは、1907年にパリで知り合った数少ないグエンの生涯の友達だ。

グエンは彼女を描き、彼女もグエンを描いている。
この何か言いたそうに首を傾けた、訝しげなポーズはグエンの絵には珍しい。

大抵はポーズ自体には変化を好まない傾向があるように思う。シンプルな姿勢で、放心と忘我の中にひっそりと存在しているモデルと、それを静に描くグエンの一体感が、この友達の絵の中にはない。
クローイを描いた物が3点あり、どれも好きな作品です。

映画女優で言うと・・・
ちょっと、シシー・スペイセクや、シェリー・デュバル等を連想させる風貌の人。
私も、描いてみたい人。

  『黒猫を抱いた若い女』   1920年頃
モデルの女性の名前は不明。グウェン・ジョンが最もよく描いたモデル。『回復期』という作品のモデルも彼女です。

大まかなタッチで描かれているのに、実に繊細な空気が見事です。黒猫の毛並みの質感が伝わってくるようです。


私の好きなグエン・ジョンの作品



 1903年、グウェンは友人のドレリア・マクニールとローマまで徒歩旅行をしています。しかし、ローマは遠く・・・・・・トゥールーズで、ひと冬を越しました。春になって、パリに戻った二人はモデルの仕事を見つけます。やがて、ドレリアは一人でイギリスに帰り、・・・・グウェンは生涯を通じての大事件!・・・彫刻家のオーギュスト・ロダンとの出会いを経て、彼のモデルをする為に、パリに留まりました。

 この絵のモデル・・・友人であるドレリアは、のちに、グウェンの弟、オーガスタの妻となりました。グウェンはこの「黒いドレスを着たドレリア」のほか、数点、彼女をモデルに描いています。
 「ドレリアの肖像」1903年
『クローイ・ボートン・リー』  1907年
私はグウェン・ジョンの描く女性像が好きです。モデルになった彼女達は、皆どこか内省的な性格をもち、自分の心の窓を閉じて、荒々しい風が吹き込むのを拒んでいるように見えます。
出来れば、ガラス越しに降りそそぐ陽射しに包まれていつまでも小さな音に耳を澄ましていたい・・・・そんな風に見えてきます。

私自身もそういった非行動的な性格なので、とても親しみを覚えるのです。

「自己充足」
これは、グウェン・ジョンの生きたかとも重なりますが、彼女の「孤独」は選んだ孤独であり、生涯の友だったのではないでしょうか。(そんな中でも、ロダンへの愛はかなり情熱的で、複雑なものでした)

グウェン・ジョンは「私は室内画を描こうとする望み以外に、表したいものは何もないのかもしれない」と言っていたそうですが、こうした人物画も自画像も、もしかすると静かな時間の中での室内静物画だったのではないかとさえ思えてきます。