つづく
オーガスタス・ジョン
グウェンとオーガスタスはともに絵の才能に恵まれたが、正式の学校教育は男子のオーガスタスのみで、グウェンのほうは行儀作法や貴婦人らしい振舞いに重点を置くミス・ウィルスンの学校へ入れられた。
ここでの教育の影響で、グウェンは生涯、「帽子をかぶらずに外で出るとまるで裸でいるように感じる」し、どんな小さな好意にも、必ず礼状を出すことを忘れなかったという。
しかし、学問のほうは、算数の基礎がすこしと、フランス語少々くらいしか教わらなかった。
1894年、オーガスタスがロンドンのスレード美術学校へ進むと、翌年には、彼女も父親を説得して同じスレードへと後を追った。
ここで生涯の友アーシュラ・ティリットやアイダ・ネトルシップと知り合い、アイダはオーガスタスの最初の妻になった。
この頃からオーガスタスは姉の作品を高く評価し、自分よりも才能の優れた画家であると信じていた。
ずば抜けた才能をもち、ボヘミアン的な風貌や、奔放な生き方・・・で一時は時代の寵児ともなったオーガスタスだったが、後にはあれほど騒がれる事を嫌った姉の方が評価を受けるようになる。
実は、オーガスタスはすでにこのことを予想しており、次のように言っていたという。
「私は死後50年もたつころには、グウェン・ジョンの弟としてしか人々の記憶に残らないだろう」
実際にそうなったのだが、改めてオーガスタスのデッサンや絵をみると、ほとばしる才気が未整理のままに蠢いているようで、荒けづりながら生涯衰えなかったエネルギーに驚く。
もし200歳まで生きる事が出来たら、この続きが完成していたら・・と、残念な気持ちに襲われる。
スレード美術学校
少女時代
ペンブロークシャーの海岸
少女時代のグウェン・ジョン
やがて父のエドウィン・ジョンはあまりに熱心に子供達を救世軍に入れようとする叔母たちからのがれ、弁護士事務所をたたんで、子供とともにテンビーの海に近い大きな家に移った。
テンビーでグウェンと弟のオーガスタスは海岸で思う存分に絵を描いた。いつもスケッチブックを持ち歩くという生涯に渡る習慣がついたのもこの頃からである。兄のソーントンは後にカナダで金の探鉱師になり、妹のウィニフレッドは母から受け継いだ音楽の才能でヴァイオリニストになり、そして、グウェンとオーガスタスは母のもう一つの才能、絵の道に進んだ。
1876年 ウェールズのヘイヴァーフォードウエストで生れる
1884年 一家でテンビーへ引越す
1890年 ミス・ウィルスンの学校に在籍
1895年 ロンドンのスレード美術学校に入学
1898年 パリで勉強
1899年 ロンドンに戻る
1900年 ニュー・イングリッシュ・アート・クラブへ出品
1903−
1904年 冬をトゥールーズで過ごし、春にパリへ戻る
1904年 ロダンのモデルをつとめ、愛人となる
1909年 ジョン・クィンが作品の購入を申し入れる
1911年 ムードンに転居
1913年 カトリック教徒に改宗する
1914年 第一次世界大戦勃発。フランスに留まる
1917年 ロダンの死
1921年 ジョン・クィンに対面する
1939年 ディエップで没す
年譜
グウェンダリン・メアリー・ジョンは1876年6月22日、ウェールズのペンブロークシャーのヘイヴァーフォードウエストで生れた。父は弁護士、母は水彩画家であり、ピアニストだった。
上に1人兄が、下に妹と弟が1人づつ・・・
グェンは5歳の時に病弱で殆ど子供達とのふれ合いの時間を持てなかった母を亡くし、乳母のミミに育てられた。
しかし母親の代わりに温かい愛情を注いでくれた乳母のミミは、「子供達がなつきすぎる」という理由で、母の妹の二人のおば達にくびにされてしまう。
この二人の叔母は聖母マリアを異端的に崇拝するとしてローマ・カトリックを嫌った救世軍の福音伝道師だったため、『ハレルヤ・チャリオット』と呼ばれる馬車に乗って熱心に伝道活動をし、グウェン達きょうだいも救世軍に入れようとした。
子供達は厳しすぎる二人のおばの目を盗んで周囲の田園を歩き回った。ペンブロークシャーの田園はグウェンにとっては自由そのもので、夏に過ごしたブロードへイブンの海岸は心の扉を開放してくれた場所だった。
少女時代の彼女は感情の抑制と周囲の田園への脱出を繰り返す日々を送り、ともに写生が好きだった事もあって弟のオーガスタスとは特別のきづなでつながっていた。
母の死
グウェン・ジョンの生涯