『ベドウィンの民』1890年頃
サージェントの水彩画は彼特有の的確な色と的確な筆致でのびのびと描かれており、見ていると本当に気持ちがいい。大好きだ。
『渓流』1910−12年頃(水彩)

『田園の静けさ』

イギリス演劇史に残る名女優エレン・テリー。
1882年にロンドンのライシアム劇場で彼女の演じるマクベス夫人を観たサージェントはすのすばらしい演技に胸を打たれ、肖像画を描く約束を取り付けた。

この作品でも衣装の描き方にサージェントの巧みな筆さばきが冴える。221センチ×114.5センチのほぼ等身大ともいえる大画面の力作。
『マクベス夫人に扮するエレン・テリー』1889年

アメリカ人画家・エドワード・ダーリー・ボイトのパリの家で描かれた子供たちの集団肖像画。

ベラスケスの「ラス・メニーナス」に似た構図。
少女たちの白いエプロンドレスがまぶしい。
画面の大半は暗い影として扱われており、明暗のコントラストが美しい。
『エドワード・D・ボイトの娘たち』1882年

サージェントのもっとも有名な肖像画。
又、この絵はパリの裕福な銀行家夫人だったマダム・ゴートローのエキゾチックな美貌に魅せられたサージェントが説得してモデルになってもらったが、ポーズと表情や衣装のなどの挑発的ともいえる大胆さが、多くの批判を呼び、パリのサロンのスキャンダルとして非難された。

匿名だったにもかかわらず、誰からも彼女だとすぐにわかったため、彼女の母親もあわてて展覧会場からの撤去を求めたほどだった。
このスキャンダルの結果、サージェントはロンドンに移った。
『マダムX(ピエール・ゴートロー夫人)』1884年

1879年、スペイン旅行の後、タンジールにまわり、こう書いている。
「われわれはムーア人の小さな家を借りた。(まだ、町のほかの家と区別がつかない。曲がりくねった白い小道がどれもそっくりなのだ)」
ここで油彩のスケッチをたくさん描いた。
1880年頃『陽光を浴びるムーア人の家』

1893年、ロイヤル・アカデミー展で大喝采を博した肖像。
衣装の描き方にサージェントらしさがある。
『レディー・アグニュー』1892−93年頃


シャーロット・ルイーズ・ブルクハルト19歳の肖像。彼女の母親は娘とサージェントを結婚させたがり、彼も気に入っていたが実らなかった。

この肖像は構図をベラスケスから借りており、「人が望みうるすべてだ」と絶賛された。
『バラを持つ婦人婦人』

「花と提灯の鮮やかさ、それに背景の芝の緑の色が出ないんだ!絵の具はこれほど鮮やかじゃない」・・・・サージェントは妹のエミリーにこう言った。

薄暮れ時の僅かな時間を写し取る為に、毎日夕方になるのを待った。

モデルの少女は、画家フレデリック・バーナードとアリス夫妻の娘ポリーとドロシー・バーナード。

のちにミリト作のカリカチュアでこの絵の題名をもじって・・・
制作中のサージェントをかいた戯画がある。
その題名は「ダーネイション、シリー、シリー、ポーズ」(笑)
日本語に訳すと「畜生!バカ、バカ、見せかけ!」だそうだ。

キャンバスの前を近づいたり、遠のいたりしながらセキレイのような動作で、ブツブツ言いながら製作しているサージェントの格好がユーモラスだ。
『カーネーション、ユリ、ユリ、バラ』(1885〜1886)

1874年、サージェントはモンパルナス大通りにあるカロリュス・デュランのアトリエに入った。パリで一流とされるアトリエであった。
カロリュス自身はサロンで何度も賞を受けた優秀な肖像画家で、「非凡な才能」を基準に弟子を選んだ。再度手を加えず、流れるように描くよう学生を指導し、若いサージェントに驚くべき流麗な筆さばきを身につけさせた。

この師は対象の色調を正確に写し取ることによって写実的な効果を出そうとした。そして最初に中間色を置き、そのあとで明部と暗部を加えて画面を構成していった。

カロリュス・デュランは当時のパリのアトリエで大流行していたベラスケスの信奉者であったが、このサージェントのパリにおける初期の肖像画は師の手法をみごとに体現している。
『カロリュス・デュラン』(サージェントの絵の先生)の肖像
私の好きなサージェントの作品