本名・(マリー・クレマンティーヌ・ヴァラード) 女流画家(1865〜1938)
はじめ洗濯女、次いでサーカス〈モリエ〉のブランコ乗り、15歳の時ブランコから落ちてから、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ザンドメネギ、ルノワールのモデルになる。
1883年息子誕生。これがモーリス・ユトリロである。
1889年ロートレックのモデルとなり、また彼と結婚したがっていたように思われる。
その意図を知ってロートレックは彼女を棄てた。
シュザンヌ・ヴァランドン
マドモアゼル・エグランティーヌとその一座
ムーラン・ルージュから出るジャンヌ・アヴリル
ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリル
狂死した娼婦とあるイタリアの貴族の間に生れ、悲惨な少女時代をすごし、その影響で神経症の余波がつづき、パリの精神病院でシャルコ医師の治療を受けた事もある。
是が非でも踊り子になりたがったが、はじめは会計の職にしかつけず、次いでアヴニュー・ド・ラルマの〈イポドローム〉で馬術を習う。
1890年強力な火薬の名を意味する〈メリニート〉という芸名で〈ムーラン・ルージュ〉でグーリュとともに「カドリール・ナチュラリスト」を踊る。
こうして彼女の名声がはじまり、パリの有名な店で踊り、ケート・ヴォーンにならってすさまじい踊りを披露する。
1890年から1894年にかけて〈ジャルダン・ド・パリ〉〈フォーリー・ベルジェール〉で大成功を収め次いでイプセンの「ペール・ギュント」コレットの「パリのクローディーヌ」に出演。1897年には〈カジノ・ド・パリ〉で躍る。「パレ・ド・グラース」で女性スケーターにまじって出演した後、エグランティーヌ一座とともにロンドンの〈パレス・シアター〉に出演。
20世紀に入ってからも地方とアメリカで成功を収め、再びムーラン・ルージュに戻った。1895年デザイナーでジャーナリストのモーリス・ビエと結婚したが、夫は1926年に死亡した。
晩年は貧困のうちに養老院に収容され(1933年)死んだ。多くの芸術家と友情を結び(アーサー・サイモンズとアルセーヌ・アレクサンドルは彼女のために詩を書いている)、特にロートレックとは親しかった。またモンマルトルの踊り子たちの間でも、ロートレックの絵を高くかったのは彼女だけだった。
ロートレックのほうでも彼女に多くの絵を贈ったが、彼女は数多い愛人に次々と手放してしまった。
ジャンヌ・アヴリル
踊り子、歌手、女優(パリ・1868年〜1943年)
ロートレックは1894年にイヴェットを知り、その肉感と皮肉とのまじりあった不思議な個性にひきつけられた。この作品は、この奇妙な女優の個性を簡潔な色彩と線とであますところなく表わしている。ロートレックの性格描写の卓抜をうかがわせる。下がった眉や皮肉っぽい口元ばかりか長い手までがこのイヴェットの人間を示しているようだ。
(ファブリ名画集より)
イヴェット・ギルベール
ロートレックの描いた人々