この時水生城南面に大沢があるから、城崎郡の要衝となるのだから、
沢を埋めて気多から登城を便利にし、その上で田結庄征伐を致したいと大野へ談じたので大野は竹田城へ退き、赤松へ
城崎征討延引を訴えさせた。
赤松は評議して、
水生城は要衝であるから見分させ、府市場・土居の間から善野寺野を潜り水洩れ入ると見る故、沢普請成就まで城崎征伐を延引することを許容して、気多郡守護の
垣屋隠岐守光成と和睦はととのった。
(和睦成立には、田結庄方赤松方共々重臣の戦死並びに山名の威力尚根強いものがあったのではなかろうか)
永禄3年(1560)11月24日、
垣屋隠岐守光成は
河本新八郎三度の軍功をほめて、感状を送っている。
(これは伊福の河本家に今も保存されている。明治23年東大資料編纂質には中世文書として写しが保管されている)
天正8年(1580)
羽柴筑前守秀吉は播州三木城を攻落し、城主
別所長治は自害して果てたので、
播州はことごとく秀吉に属した。秀吉は
因州征伐の途路、但州平定を意図していた。但馬の諸城主はこの風聞を耳にして、噂は噂を生み秀吉の優れた智勇に恐れ、これと一戦を交えようとする者がなかった。
西村丹後守の子で平八郎忠宗という者が気多郡水生城に住んでいた。
かれは垣屋駿河守・長越前守・赤木丹後守・下津屋伯耆守・大坪與四郎・篠部伊賀守等々と水生に会合して申すには、
山名時氏当国を治めて弐百有余年数代にわたり厚恩を受けながら、
一戦にもおよばず国家を他人の手に渡すことは人臣の恥とするところである。
けれども秀吉と戦っては吾等勝算はない、
この上は偽の計を以て敵を欺くことにしよう。
養父郡宿南と朝倉との間に険岨な岩山がある。下は深い淵で道は甚だ細くやっと一騎が通れる位の通行の難所である。
伏兵を上の岩山に伏せておき、我々は宿南野に出て降参し、秀吉が難所を通る時、
山から岩石を落として狼狽するところをいっきに攻め戦おうと衆議一決した。
(現在の岩山・・・手前は円山川が流れている。)
やがて
羽柴軍の陣に出て降参を乞うたが、宮部は下知して生捕らせたという。城中には謀段々と相違したので皆討って出て防戦数刻に及んだ。富森・長は聞ゆる勇士であったから敵陣へ切り入り多くの敵を討ったが、終に討たれた。その外あるいは自害する者立ち退く者などで落城したと・・・。
『但馬一覧集』
また
、『但州発元記』には水生城にて誓盟した連中に
篠部伊賀守は、長、並びに西村に
かねて宿意があったから、これは
よき時節と思い秀吉へ内通した。即ち家臣藤井伊助という者を使いとして逐一訴えさせた。
秀吉は非常に喜び、「
これより出石または城崎への道筋がほかに有るか」と聞いた。
藤井は
通路を詳細に説明したので秀吉軍は伊佐川を越え、菅谷より出石の城に入り、浅野弥兵衛、仙石権兵衛亮を大将として、狭間坂より押寄せさせ、また宮部善祥房を城門より出して気多郡水生城へ両路より攻寄せたと述べている。
なお、
山鹿素行は
武家事記の中で次の如く述べている。
「秀吉が播磨に行き、但馬を攻めた時、山名の老臣
垣屋駿河守(豊続)が但馬にいあわせたので、
3000の兵を率いて水生に出て陣を張った。先陣には長の某(時に18歳)と徳吉、安吉という二人の家老が加わった。三陣には駿河守がより抜きの精兵を率いて出陣した。
寄手は伊藤与三右衛門が3000ばかり、
宮部はわずか5、6百ほどであった。宮部の主従18人はみな、武羅(よろいの背に負って矢を防ぐ具)をつけて真先に駆け入る。
その頃但馬の人々はまだ武羅を知らなかったので、これを見て大いに驚いたという。
先手の長は戦死したが続く伊藤は孫三郎の軍を抜くことが出来ず、安長に討たれ、兵士もさんざんやられて、その日の戦いは終わった。
しかし数日後の対戦で、
垣屋はとうとう秀吉に降伏して、但馬は平らげられた。世にこれを水生合戦という。但馬は
美濃守秀長(秀吉の異父弟)が賜り、
宮部は二万石を賜り、垣屋はその与力となったと・・・・。」
水生城の山麓東南の西芝村に寺領(
水生山長楽寺)がある。
字寺屋敷という。農地解放前は10アール以上あり、年貢は長楽寺の収入であった。
戦後小作に解放し、現在は17平方メートルが残され寺の所有となっているがここにこんな石碑がある。
『任務院殿雄方智門大居士 文化十四年(1817)三月造立之』
天正8年(1580)と、文化14年(1817)では237年後に建てたことになる。これが水生城主西村丹後守か、その子、平八郎忠宗の石碑かあるいはまた筋違いの人の石碑か真疑の断は下せない。