下津屋伯耆守
■主な城主  
康正元年(1455)〜天正8年秀吉の但馬平定まで
■時代 
標高わずか100メートル未満の山城であるが、その跡地は旧城崎郡随一の平坦部を有すると思われる。最高部で長さ約90メートルの直線に巾35メートルで14アールあり、約6メートル下って1アール、さらに2メートル下って1アール、最低部は3アールと、計四段の曲輪からなり、東・南・北に小段丘あり、西面は断崖絶壁で円山川の渕となっている。

大正初期より戦時まで青年団員の労働奉仕で鶴岡城山公園として有名であり、団員の手で桜120本が植樹され、径30センチメートル大の桜が育ち、花見の名所になっていた。

登山道には欅の大木、樹齢300年の椿の美林も名物であった。
戦時中食料増産でここも桜を切り倒して開墾したため見る影もなくなった。
戦後ほとんど見捨てられ、城跡は笹原と天然の栗が繁り、歩行も不可能になった。

ここからの展望はすばらしく、旧日高平野、国府平野を眼下に、遠く豊岡盆地も中筋平野も手に取るように見える。

井田神社の石段から、神社裏に廻って行かなければ現在他の道は全然通れない。
豊岡市日高町鶴岡字城山 <城所在地図 旧城崎郡の31>
(いうじょう)
伊福城
康正元年(1455)、但馬守護山名宗全が京都にいた時、滑良兵庫伊達新助とが争論したので、因幡守護山名棟豊はこのことを京都に居る宗全に訴えたところ、宗全は但馬の武士篠部伊賀守と、伊福城主下津屋伯耆守の両者にこれを討つよう下知した。

両将は300の兵をもって討伐に向かい、の旨を伝えて和睦させた。
宗全は大いに喜んで両将に感状を与えたと伝えている。

また、秀吉の但馬征伐の時は、下津屋は水生城合戦に加わり、敗れて滅亡しその後の状態は全く資料がないので不明である。
西側、断崖絶壁の下を流れる円山川(すぐ手前は鶴岡橋がある)

山陰線江原駅南方浅倉トンネルの上部東寄、屏風のように屹立した岩山にある。南に円山川の渕が迫り、ここを「浅倉の岩歩危」という。頂上には人工による三段の平地が作られているが、非常に狭小である。

「但州一覧集」によれば・・・・・
「天正8年(1580)、羽柴秀吉軍が水生城を攻めた時、水生城に集合した城主・西村丹後守垣屋・長・赤木・下津屋・大坪・篠部ら山名氏の諸将は作戦を練った。

浅倉村岩山城の下の細道の難所、(岩歩危)秀吉が通って気多郡に這ろうと、難所に差し掛かった時、岩山城から大石を落とし、秀吉軍が円山川へ落ちて漂うところへ、伏勢を出して討ち取る計画を立て、秀吉軍の来るのを待ち受けたが、宮井の城主・篠部伊賀守は西村丹後守らにうらみがあったので、郷士藤井伊助を使者として、この作戦を密告させたのである。

秀吉軍はこれを聞いて、方向を変え、伊佐を経て浅間坂を越え、出石を攻略し、続いて狭間坂を越して水生城へ押し寄せ、攻め落としたとある。

、「田尻家資料」によれば、浅倉村田尻嘉兵の寛政12年(1800)の「浅倉地図」には、「岩山城主佐々木近江守ナリ。天正年ニ秀公小田村ヨリ水生山ニオモムキシトキ、コノ剣剛ニテ出石へ御通り」と記してある。佐々木近江守義高は浅間城主にして、戦わずして降参したと「宿南掃部狼婦物語」には記されている。

312号線岩中方面から見る

赤崎集落から見た謀策の岩山
豊岡市日高町浅倉砦 <城所在地図・・・・城崎郡の33>
(いわやまじょう)
岩山城

進美寺は文武天皇慶雲2年(705)行基によって開基されたと伝える天台宗の名刹である。
南北朝時代には、ここは但馬の重要拠点の一つとなり、南朝、北朝に分かれてはげしい攻防戦がくりひろげられた。

延元元年、足利尊氏の命により今川頼貞は但馬、丹後の平定作戦を行うが、この軍に従った土豪に、養父郡小佐郷の伊達義綱がいる。

義綱は8月3日南軍のたてこもる進美寺に向かい、5日には南中尾で熾烈な戦闘を行う。14日には荏原で城中にたてこもる南軍を追い落としている。

それでも但馬の南軍は、新田義貞の子、義宗を三開山に迎えるなどして、勢力挽回につとめる。この南軍を足利直義の部将・小俣来全をして攻撃させる。このときにも伊達義綱とその兄弟貞綱は小俣軍に加わる。

延元2年6月21日には田結庄城、7月26日加悦(かや)荘、8月26日但馬妙見之尾が攻略されるが、このとき進美寺城も落城したのだろうか。翌3年5月には進美寺を伊達義綱に警固させるとともに、同4年、尊氏は進美寺攻囲の北軍に兵糧料所を与えている。(石田松蔵氏「但馬史U」による)

次は、240年下って、室町時代末期

「但州一覧集」には、・・・・・信長秀吉を重要視し、陣代に登用、播州を攻めさせ、なお山陰北陸をも攻略の命をだした。このことを憤り畿内を離れなかった光成は、その頃但州出石の子盗(此隅)の城が廃城であると聞いて、登尾峠を越え出石を攻めようと、陣代として大野内膳正続康、伊藤七之助次取、伊藤加助に人数を漆え、出石表へ差し出し、後には進美寺に掻上の城を構えて居たと記している。

しかし河本文書には、水生合戦の永禄合戦を書き改めたが、赤松の陣代と同一人物名が登場する。この頃は史実の発掘により正す余地ありと感ずる。


        赤崎集落より進美寺山を見る
■時代     南北朝時代(1333〜)及び永禄の頃(1558〜1569)

■主な城主  明智光成 または赤松?
      
豊岡市日高町赤崎 <城所在地図・・・城崎郡の32>
(しんめいじさん・かきあげじょう)
進美寺山掻上城
進美寺
掻上城
岩山城
祢布城
国分寺城
八代城
奥八代砦
山本陣屋と水上代官所
伊福城
上郷城
水生城
旧城崎郡の【1】

急峻、登頂困難である。山頂はかなりの広さの三段の構があり、最頂部が最も広く約3アールある。頂上からは旧日高平野全域を殆ど一望し得る。

南北朝の時代、城主高田次郎貞長が、山名時氏に亡ぼされ、その後城主はなかった模様で、その他は不明である。
豊岡市日高町祢布(にょお)字城山
           <城所在地図・・・・城崎郡の34>
(ねふじょう)
 祢布城

大正11年、弘法大師の信者が発起して、国分寺山及び、水上(みのかみ)村裏山一帯に88ヶ所を建立して石仏を配し巡礼した。国分寺城址もこのコースに当てられこの辺一帯を通称大師山というようになった。

だからここだけは他の城址と異なり、今も楽々と登れるよい道であり、ハイキングコースになり、かなり利用されている。展望が良いので戦時中監視哨が置かれていた。

城址は三段に切開かれ、旧日高、旧国府、一部豊岡市を展望し、東前方に伊福城址、南前方に宵田城址を指呼の間に見る。最上段はかなり広く三体の石像を祭っている。

城址の裏北方水上区分には深さ2メートル、巾6メートルの掘割を築いている。しかも一ヶ所に止まらず、三重にまで築いてある。

相当大規模で典型的な掘割である。

城址の麓から焼米が出土し、秀吉の征伐で焼き払われたのだと伝えている。先年日高町上水道浄水池が建設され、工事中多量の焼米が出土している。

天正年間、羽柴秀吉の但馬征伐に際し、山名の武将として水生山城主・西村丹後守らと共に、謀を以って討つことに失敗、水生城落城と運命をともにした。
■時代      延徳3年〜天正8年(羽柴秀吉の但馬平定)

■主な城主   大坪又四郎 
豊岡市日高町国分寺字城山<城所在地図・・・・城崎郡の35>
(こくぶんじじょう)
国分寺城

■時代  年代不詳      ■主な城主  藤井左京  
 谷村・篠部氏の裏から登れば墓地点在す。
ここに個人の物と思われる数多くの五輪塔並に宝篋印塔の残欠が散乱している。
(これと同様藤井側山麓の寺屋敷という所にも散乱している)それより谷添いの山道を登ると道は消え失せてしまう。

 道のない雑木林の笹原を城址目掛けて登るとかなりの平があり、山頂に行く途中、各所に掘割が造られているが、長の年月に相当埋っている。

 眺望は旧国府平野及び、旧八代平野の藤井・奈佐路・谷・中・を一望する事ができる。
豊岡市日高町谷字城山 <城所在地図・城崎郡の36>
(やしろじょう)
八代城

 奥八代村は西から東流する八代川を真中にして南北双方より山が迫っているが、特にこの砦は、北に宝城・南に南山が接近している。

 この二つはどう考えても一体のものであるとしか考えられない。双方の間隔城址直線200メートルという近距離にあることと、双方共等高線80メートル、更にどちらも人工による平が造られている。特に南山は平も広い。

 そこから250メートル西に別れ道がある。西に直進すると、おちょうもん(比曽寺参道御中門のあるところと伝える)を経て西ノ下谷に通じ、右折して北に進めば瘡(かさ)の痂(ふた)嶺(とうげ)を経て河江・大岡・小河江の分岐点となり、小河江を経て豊岡市辻に通ずる。

 故に奥八代砦は、国府へ通ずるのどくびに相当するから二つの砦が一体となって、その機能を発揮する事が出来る。

 この砦が八代城主・藤井左京の前衛としての役を果たしたのではなかろうか、或は独立していたものか、全く資料も口伝もないので、はっきりとしたところがわからない。
豊岡市日高町奥八代字宝城・及字南山
      <城所在地図・城崎郡の37>
(おくやしろとりで)
奥八代砦

代官屋敷は3メートルの築地を以て、約25アールの広々とした平坦な屋敷が残され、今子供の遊び場として開放、更に江戸末期建築の門は、一部改良されているが、水上区公民館として活用されている。

 門に登る道は実に古風で立派な築地道である。代官所跡は各地とも原形を留めるものが稀であるので、この姿を後世に残すべく、昭和44年8月3日、嗣子13世及、一族により、記念碑が建てられた。

出石藩主・小出家の三代目、修理亮吉重は寛文6年(1666)家督の際、三人の舎弟に五千石を分封した。すなわち縫殿助に2000石(倉見)、宮内に2000石(大藪)、主殿に1000石である。主殿は山本に陣屋を構えた。

 この山本の小出家の中に、徳川直参旗本・小出助四郎英通の名も見られる。

 山本の小出家の代官を勤めたのが三木家である。三木家は郷士で初代孫太夫は寛文のころからこの地に住み、寛延2年(1749)7代目太郎右衛門勝豊に到って代官職を仰せ付けられ、以後明治維新までその職をつとめる。

 また、山本の陣屋のあった場所をお屋敷と伝えているが、再三の道路拡張で削りとられ、いまはその一部を残すにすぎない。

 陣屋には村野仁左衛門という家令もいたというが、詳細はわかっていない。

 山本の法花寺には、小出家代々の位脾が20数体まつられている。また、同寺には次の通行証も残されており小出斉定なる名前も見られる。

                     覚
       
     一、但馬の気多郡山本村禅宗法花寺鐘鋳ニ付而勧化之
       儀相願候  依之通行之節無□御通可被下候
       以上       小出斎定内  村野仁左衛門
                    寛保元年酉八月廿六日
                    所々御役所
豊岡市日高町山本/水上
       <城所在地図・城崎郡の38・39>
(やまもとじんやとみのかみだいかんしょ)
山本陣屋と水上代官所

★城所在地図へ
■時代/  天徳年間(957頃)〜天正8年(1580)
■主な城主/源満仲・赤木丹後守

標高100メートルの山城、城は二段の城塁を持ち、頂上は約2.5アールの広さがあり次に1.5アールの広さがあり、小部分に石垣が残っている。

戦前は老松が点在し、小学生の遠足やハイキングに利用された。いまも道があり登山に便利である。

『但州発元記』によると
「人皇六十二代村上天皇御宇、天徳年中清和帝の曽孫、源の満仲兼任の勅を蒙り、当国の守護として気多郡上郷の城に居住し給ひ、安和2年己巳八月兼任終わりければ上洛し玉ふ。六十四代円融院の御宇、天禄元庚午歳嫡男頼光の朝臣、同じく兼任守護として上郷山城に居せらる、今頼光寺はその旧跡なり」と。

金葉和歌集巻の九の部連歌の巻には、頼光が但馬守として在中のこと、館の前に気多川(円山川)が流れていて、船の下るを蔀あげ侍に問われると、蓼と申す草を刈っているのですと、答えたので、口すさびに

   源頼光朝臣  
     たでかる船のすくるなりけり
      ( ・・・・・・・・これを連歌にききなして)
   相模母頼光妻
      あさまたき からろの音のきこゆるは
                          と、吟ぜられたという。
戦国時代の上郷城主は赤木丹後守で、天正年間(1573〜91)、秀吉が攻めたという水生城合戦の際これに参加したが、その末路も確たる資料を欠くので判明していない。
豊岡市日高町上郷字城の山 <城所在地図 旧城崎郡の30>
(かみのごうじょう)
上郷城

この時水生城南面に大沢があるから、城崎郡の要衝となるのだから、沢を埋めて気多から登城を便利にし、その上で田結庄征伐を致したいと大野へ談じたので大野は竹田城へ退き、赤松へ城崎征討延引を訴えさせた。

赤松は評議して、水生城は要衝であるから見分させ、府市場・土居の間から善野寺野を潜り水洩れ入ると見る故、沢普請成就まで城崎征伐を延引することを許容して、気多郡守護の垣屋隠岐守光成と和睦はととのった。
(和睦成立には、田結庄方赤松方共々重臣の戦死並びに山名の威力尚根強いものがあったのではなかろうか)

永禄3年(1560)11月24日、垣屋隠岐守光成河本新八郎三度の軍功をほめて、感状を送っている。
(これは伊福の河本家に今も保存されている。明治23年東大資料編纂質には中世文書として写しが保管されている)

天正8年(1580)羽柴筑前守秀吉は播州三木城を攻落し、城主別所長治は自害して果てたので、播州はことごとく秀吉に属した。秀吉は因州征伐の途路、但州平定を意図していた。但馬の諸城主はこの風聞を耳にして、噂は噂を生み秀吉の優れた智勇に恐れ、これと一戦を交えようとする者がなかった。

西村丹後守の子で平八郎忠宗という者が気多郡水生城に住んでいた。
かれは垣屋駿河守・長越前守・赤木丹後守・下津屋伯耆守・大坪與四郎・篠部伊賀守等々と水生に会合して申すには、山名時氏当国を治めて弐百有余年数代にわたり厚恩を受けながら、一戦にもおよばず国家を他人の手に渡すことは人臣の恥とするところである。

けれども秀吉と戦っては吾等勝算はない、この上は偽の計を以て敵を欺くことにしよう。養父郡宿南と朝倉との間に険岨な岩山がある。下は深い淵で道は甚だ細くやっと一騎が通れる位の通行の難所である。

伏兵を上の岩山に伏せておき、我々は宿南野に出て降参し、秀吉が難所を通る時、山から岩石を落として狼狽するところをいっきに攻め戦おうと衆議一決した。

(現在の岩山・・・手前は円山川が流れている。)


やがて羽柴軍の陣に出て降参を乞うたが、宮部は下知して生捕らせたという。城中には謀段々と相違したので皆討って出て防戦数刻に及んだ。富森・長は聞ゆる勇士であったから敵陣へ切り入り多くの敵を討ったが、終に討たれた。その外あるいは自害する者立ち退く者などで落城したと・・・。
                           『但馬一覧集』

また、『但州発元記』には水生城にて誓盟した連中に篠部伊賀守は、長、並びに西村にかねて宿意があったから、これはよき時節と思い秀吉へ内通した。即ち家臣藤井伊助という者を使いとして逐一訴えさせた。
秀吉は非常に喜び、「これより出石または城崎への道筋がほかに有るか」と聞いた。

藤井は通路を詳細に説明したので秀吉軍は伊佐川を越え、菅谷より出石の城に入り、浅野弥兵衛、仙石権兵衛亮を大将として、狭間坂より押寄せさせ、また宮部善祥房を城門より出して気多郡水生城へ両路より攻寄せたと述べている。

なお、山鹿素行武家事記の中で次の如く述べている。
「秀吉が播磨に行き、但馬を攻めた時、山名の老臣垣屋駿河守(豊続)が但馬にいあわせたので、3000の兵を率いて水生に出て陣を張った。先陣には長の某(時に18歳)と徳吉、安吉という二人の家老が加わった。三陣には駿河守がより抜きの精兵を率いて出陣した。

寄手は伊藤与三右衛門が3000ばかり、宮部はわずか5、6百ほどであった。宮部の主従18人はみな、武羅(よろいの背に負って矢を防ぐ具)をつけて真先に駆け入る。
その頃但馬の人々はまだ武羅を知らなかったので、これを見て大いに驚いた
という。

先手の長は戦死したが続く伊藤は孫三郎の軍を抜くことが出来ず、安長に討たれ、兵士もさんざんやられて、その日の戦いは終わった。

しかし数日後の対戦で、垣屋はとうとう秀吉に降伏して、但馬は平らげられた。世にこれを水生合戦という。但馬は美濃守秀長(秀吉の異父弟)が賜り、宮部は二万石を賜り、垣屋はその与力となったと・・・・。」

水生城の山麓東南の西芝村に寺領(水生山長楽寺)がある。
字寺屋敷という。農地解放前は10アール以上あり、年貢は長楽寺の収入であった。
戦後小作に解放し、現在は17平方メートルが残され寺の所有となっているがここにこんな石碑がある。

『任務院殿雄方智門大居士 文化十四年(1817)三月造立之』

天正8年(1580)と、文化14年(1817)では237年後に建てたことになる。これが水生城主西村丹後守か、その子、平八郎忠宗の石碑かあるいはまた筋違いの人の石碑か真疑の断は下せない。
今度善野寺野合戦之時於服部左近右衛門打取云々同助右衛門於手下討取候段忠節無比類次第候弥入魂の事肝要也

    永禄弐年九月三日 続康 花押

河本新八郎どの
然るに8月27日、伊藤七之助続職・太田垣左京之助氏説討死したのである。
8月28日より山名の下知を以て、赤木丹後守、西村丹後守使者として陣中に入り、種々和解方奔走の効あり、9月朔日和融調い、双方開陣をなし、水生城を赤木、西村の支配として和解した。

9月3日大野内膳正続康は河本新八郎に感状を贈ったのである。
去廿三日末刻、善野寺野合戦の時に、服部左近右衛門尉頸討捕候て、翌日廿四日伊福村於亦一ツ打取致候云々、
誠以度々粉骨及候段、名誉比類無此上、弥抽可事忠之状如件

   永禄貳
      八月廿六日 続職 花押

             河本新八郎殿へ
水生城は上石字水生山の中腹、国府駅北西部にある水生山長楽寺という真言宗寺院裏から、標高約160メートルの山頂に至る間の数ヶ所に曲輪が見られる。現在は寺領で数年前から植林が進められている。

頂上部はあまり広くなく1アールくらいだが寺までの間には6アール、4アール、2アールと相当広い平が見られる。
頂上近くや、頂上尾根伝いの鞍部には防備の構としての切通しが数ヶ所見られる。

山頂に立って眺めると、東は険阻、北は切り立った岩壁、西の尾根伝いに掘割が重なり、防備完璧の感がある。

眼下には広々と高生田平野が広がり、かつての政治の中心地として、但馬の国政務を執り行った国府の庁(国衙ともいう)のあった府中新、府市場(国府市場)や、また聖武天皇の勅願によって各国々に建立された但馬国分寺跡も、または代官屋敷、総社気多神社、上郷城跡をはじめ伊福、国分寺、宵田、進美寺掻上の城、天台宗の古刹進美寺を望み、更に曲がりくねって北流する円山川のはるかなるかなた(約12キロメートル)に山名の本城出石有子山城を指顧することもでき、当時の用兵戦略から見ても、非常に大事なよりどころとなる城であったことがわかる。

この城は古い歴史を持っている。南北朝のころに造られたもので南朝に味方した長左衛門尉の居城として知られている。

延文元年(1356)北朝に味方した伊達三郎の軍勢との間に、同年8月16日から10日間にわたる戦争の末、同月26日ついに陥落している。

その後約200年間あまりは誰の居城であったのか明らかでない。

但し西村丹後守が水生城主となる以前には現在の水生山の旧城跡「蛇頭がなる」に城を築いていた榊原式部大輔政忠が城主であったと考えられる。

そして彼の時代、城内の鎮守神として熊野権現を祭ったと言われる。
彼がいつの時代に何年間城主であったのか、また何故に近江国にまで出向いて戦死しなければならなかったのか等々、資料を欠くので不明であるが、時あたかも戦国の激変の時勢、こうした経歴不明の士が一時の城主として領知し水生に居城したことはあり得べきことであろう。

河本家文書によれば、右永禄年中諸国乱れ将軍究らず、よって但馬の国主山名俊豊公は城を離れることなく、出石城在住していたがそのころ山名の給人等主命に従わず、領分境の事論をしていた。
折しも播州から赤松左兵衛尉則貞、大軍を率いて当但馬国に乱入し、竹田城を攻撃したので、城主太田垣よく防戦したが、終に破れ自害してはてた。

続いて養父郡八木城を猛攻したので、八木但馬守かなわず城を捨て因州へ退却した。

続いて養父郡石和大和・佐々木近江も赤松に降ったのである。

赤松左兵衛尉則貞は、気多郡垣屋をも攻破らんとして、進美山に陣を取ったので、気多の諸士はこれに驚き、宵田城に集合し、一時火急をしのがねばならないが、如何すればと評議し、気多郡守護代、佐田楽々前(ささのくま)城主垣屋隠岐守和睦交渉者に決めた。

かれは急ぎ赤松へ和睦を申し込んだのだが和議には条件がつけられた。
すなわち赤松も陣代を派遣するから、垣屋が軍兵を以って共に城崎郡田結庄を征伐せよ、しからば和睦するということであった。交渉の全責任を負っている隠岐守としては止むを得ず承諾したことであろう。

盟約締結、赤松は竹田城へ退いたのであるが、一方田結庄右馬助は、城崎軍の軍勢を揃え、気多郡水生鉄磨の城に構えた。

このとき気多郡の大将垣屋隠岐守光成・赤松陣代大野内膳正続康・同じく伊藤七之助続職気多・養父の軍勢を率いて善野寺野に陣した。

永禄2年(1559)8月22日合戦が始まった。

翌23日城中より服部左近右衛門が出て来たので、強剛河本新八郎重成(伊福の郷士)がこれを迎撃し、槍先で左近右衛門を突伏せ首を討ち取りその日の組頭伊藤七之助に伝えたので、大野の陣へひかえさせ休憩を与えた。

しかるにそのおり、左近右衛門の弟服部助右衛門が名乗りをあげ、兄の仇新八郎出会え、勝負勝負と躍り出て呼ぶので、新八郎はぜひもなく立ち向かい、弓矢を以って助右衛門を射殺し、大野内膳正へ報告した。

また翌日、垣屋隠岐守へ後詰の出陣催促の際、服部の郎当が伊福まで来て、主君の仇と叫びながら伐ってかかったが、新八郎はこれをうけ流し、首を討ち取り組頭伊藤に報告した。

伊藤七之助続職は8月26日新八郎に感状を送った。


     
     
■時代/南北朝頃〜天正9年(1581)
■主な城主/南朝に味方した長左衛門尉・榊原式部大輔政忠・西村丹後守
豊岡市日高町上石字水生 <城所在地図 旧城崎郡の29>
(みずのおじょう)
水生城

鶴岡から見た伊福城跡