日高平野の南端、円山川の狭隘部に突き出た標高106メートルの山城で、江原市街地を眼下に見下ろし、はるかに豊岡方面を望む要衝の地点にある。

城の北東南の三面は急峻で、稲葉川が堀のようにこれを囲んでいる。頂上の本丸は広い平地がつくられ、石垣、石段などに使用されたらしい石が僅かに残っている。

四方には数段の曲輪がつくられ、山城としての雄姿を示している。
本丸からは古瓦が出土し、東二ノ丸に井戸跡が残っているという。




1)垣屋氏系図によると、永享2年(1430)に、楽々前城主・垣屋播磨守隆国が築いたもので、次男・垣屋隠岐守国重を宵田城主にしたとなっている。

2)垣屋筑後守忠顕は、天正3年(1575)愛宕城主・田結庄是義と戦い、豊岡盆地を手中におさめた。(鶴城参照)

3)垣屋筑後守忠顕は天正8年2月2日死去しているので、秀吉の但馬征伐には加わっていないことになる。

4)垣屋光成の弟・峯信は忠顕の死後、宵田城主となる。天正8年秀吉の但馬征伐のとき峯信父子は宵田城をのがれ楽々前城にて討死した。
■時代/永享2年(1430)〜天正8年(1580)
■主な城主/垣屋隠岐守国重、垣屋筑後守忠顕
                   (家系図参照)
豊岡市日高町岩中  <城所在地図 城崎郡の40>
(よいだじょう)
宵田城
宵田城
篠森城
楽々前城
鶴峰城
森山城
山宮城
太田の城山
東河内の城山
稲葉の城山
万場の城山
旧城崎郡の 【3】

別名:笹が丸城
豊岡市日高町久田谷 <城所在地図 旧城崎郡の41>
(ささがもりじょう)
笹森城
<清和天皇>満仲頼信(諸国を遍歴し、武州足立に住し足立を姓とす)−信義(京都に上り、洛北に居す後、丹波椽に任せらる)−清秀(平治年中、義平に従い侍賢門に奮戦し、遂に六波羅に不利丹波佐竹氏に拠る)−清継求馬允(佐竹氏の 娘と姻す)−経種(応永7年京都守護を命せらる)−忠国(丹波佐治に住す)−義匡 ー好忠忠経(豊前守に任せられ但州笹ヶ丸城を築き居を定む450石を領す)−
(妻・河本石見守女小枝刀自・山名氏の不興により防戦不得勝利の仍而城を開き、高生の民家樋田氏に拠る元亀三年其時四十七歳元和二年歿す天寿九十二歳)−晴秀(樋田氏愛女佐久子刀自と姻す)−晴久・清正(生野長左衛門の養子となる)・清高(浅間佐々木義尚近江守の養子となる)
(1)足立氏家系略伝、歴世法号、世代続柄(朝来市和田山町宮田、足立節治氏所蔵)
(2)足立氏系譜(日高町鶴岡、松本玉枝氏所蔵)
(3)藤原足立系図(養父市八鹿町伊佐・佐々木氏所蔵)
(4)卜部中臣藤原姓大網(峰山町新治、安達弘氏所蔵)

この中で、(2)の足立氏系譜(略)は次のようである。
■時代/戦国時代〜元亀3年ごろ
■主な城主/足立肥前守

※篠森城の系図その他について下記のものがある
日高町久田谷の入口に低い小山があり頂上に若干の平地がある。この小山は通称「稲葉山」といわれているが、この稲葉山が篠森城であろう。

足立氏系譜(二)によると、
足立豊前守忠経が笹ヶ丸城を築いたとあるが、その年代は不明である。そして足立肥前守晴高になって元亀三年(1572)落城したとなっている。

上記系譜には篠森城、笹ヶ丸城のどちらも足立氏の城として登場するが、同城異名ではなかろうか。

篠垣方面から見た楽々前城
日高町伊府字金島にある垣屋隆国の墓
山名四天王の筆頭・垣屋氏の楽々前城は、日高町西部、三方盆地の東部にあり、佐田から道場にかけてほぼ南北に1.5キロに及ぶ日高町第一の雄大な山城である。

道場部落の裏山が中の丸であって、通称城山といわれている。中の丸から間道を登ると途中に広場があり、三の丸、二の丸を経て佐田部落の裏山の頂上にある本丸に達する」という。
本丸は幅30メートル、長さ50メートルにおよぶ広大な平地で、所々に大石がある。
本丸の下には若干の石垣が残っているが、築城のものか疑問である。本丸は現在竹林や雑木林となっている。

中の丸の麓に城門があったといわれ、その前には石垣で作られた広い土地があって
経堂と通称されている。これは垣屋隆国の菩提寺である最初の隆国寺が建っていたところである。

経堂の前方に横穴式古墳があり、その上に鐘楼が建っていて、、鐘の音がよかったと伝えている。

経堂の近くに垣屋隆国の室(シツ)西方寺殿を祀る西方寺があったという。
付近に「刀研ぎ清水」、「お市が谷」などの伝説地名を残している。


<説明>
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楽々前城は垣屋隆国応永年間(1394〜1427)に築城したと伝えられている。隆国の父・垣屋弾正時忠は、明徳の乱のとき主君・山名時熈の急を援け、京都二条大宮の合戦にその武勇を振るった。

『明徳記』

「奥州の勢八騎が宮内少輔(山名時熈)を取り囲んで既に討ると見えける処に、垣屋弾正きっと見て、滑良は無きかつづき給へと云ければ、滑良兵庫も是を見て心得たりと云侭に、二人の者共八騎が中へ破て入、垣屋は五尺六寸の太刀、滑良は五尺二寸の長刀を持て、敵八騎を手の下に六騎切ぞ落しける。

ここなる敵只二騎に多くの御方を打るるはきたなき御方の振舞哉。
打ち物留て馳並で組討にせよと宣ければ、山口弾正、福冨備中を始めとして、究竟の兵十四五騎一度にばらりと下り立ちて、鑓長刀を差し合わせ、透き間も無こそこうたりけり。

此れは遁ぬ所也。
とても討死せんずれば下りよ滑良と云侭に、二人ながら下り立ちて、垣屋大太刀なりければ、馬をも人をも立破りにせむと小脇をすかいて打ければ、敵の鎧兜の袖より切り余しける切前を土へ深く打籠て、抜かん抜かんとする処に、相引の余り打甲へ鑓長刀を籠にければ、今はかうと思いつつ暇申て、滑良殿先立かと云侭に、念仏四五返申とぞ聞えし。

垣屋其の侭討たれけり。滑良兵庫是を見て、待せ給へ垣屋殿、やがて追付き申さんとて、敵六騎に交リ合て、死狂と云侭に命を限りに戦けり。」

とあるごとく、垣屋弾正は剛勇の武士であった。

A
隆国の長子・垣屋満成はそのあとを続ぎ、次男・国重は宵田城主となり,
三男・時国は轟城主となり、四男・永喜は日高町知見に分知し郷士となった。

隆国夫妻の墓は日高町伊府字金島にある。

隆国のものは高さ1.2メートル、内室のものは0.73メートルの宝篋印塔である。(現在は墓所を改修し、是より台座の分だけ低くなっている)

B
垣屋隆国の子・満成は山名氏に従いしばしば出陣し戦功があった。宝徳元年(1449)金山村に布金山隆国寺を創建した。また安養山西方寺を開基した。

しかし『隆国寺由来記抄』によれば

「隆国寺は隆国公開基とし、西方寺は隆国公嫡子・隆光公が慈母のために楽々前城の辺に建立した。

また、円満山瑞光寺を金野原に建てた。隆国寺は楽々前の城門にあって泰孝山隆国寺と号したが、楽々前城落城後、寺を阿瀬谷金山に遷し、楽々前に経堂を残したので、今にその地名がある。

金山に在った時、山を祝して布金山隆国寺と号した。今にその屋敷がある
西方寺は楽々前城内門にあったが、移城の後、鶴峯城下観音寺谷に移した。両所に屋敷がある。」

と記してある。


<参考>

楽々前城近くにある伊府は、条里遺構が残されており、国府に関係のある字名もあるようで、臨時的短期間国府が置かれたところとも考えられる。
しかし中世になってからは城主の居館跡であったようである。

伊府には垣屋隆国夫妻の墓所があり、中世的な字名もあるようで垣屋氏の居館があったところではないかと思われる。

佐田の常光寺には楽々前城本丸跡から出土した室町時代の茶がまが所蔵されている。
茶釜には水辺に水草と鷺を配した図案があり、小さな茄子の形をした取手が付けられている。






■時代/応永のころ(1394)〜慶長6年(1601)
■主な城主/垣屋播磨守隆国
豊岡市日高町伊府字城山 <城所在地図・旧城崎郡の42>
(ささのくまじょう)
楽々前城
<現状>
ー国重(宵田城主)ー遠重ー良国ー忠顕ー国宣ー忠平
ー国時
(轟城主)ー豊懈−宗時ー豊実ー孫一郎ー豊政
ー永喜
ー政忠(楽々前城主)ー続成ー光成ー恒総ー光教ー光重
・・・忠法ー重教ー時忠ー隆国(楽々前城主)−満成

鶴峰城は宵田城とともに、楽々前城に属する垣屋一族の城である。

鶴峰城は永正9年(1512)、垣屋越前守続成が築城して城主となった。晩年には田結庄是義と隙があったが、元亀元年9月15日夜、岩井村養寿院に於いて是義に襲われて自害した。

垣屋続成の子・垣屋播磨守光成のとき、天正3年、宵田城主垣屋筑後守忠顕田結庄是義と戦ったとき、光成はこれに加わり、田結庄を滅ぼした

<参考>
城の麓に大石垣で築いた畑があり、殿屋敷と称されている。これは垣屋の家臣国屋、安田両氏に関係があると思われる。
また、城の西麓にある殿村も垣屋の家臣の屋敷があったところであろう。
観音寺と殿との間にある俗に三方富士と呼ばれている鶴峰山(400メートル)にある三段式の山城である。
■時代/永正九年(1512)〜天正八年(1580)
■主な城主/垣屋続成・垣屋光成
豊岡市日高町観音寺 <城所在地図・旧城崎郡の43>
(つるがみねじょう)
鶴峰城