旧城崎郡の城【3】
塔の尾城 |
志馬比城 |
安木城 |
荘司城 |
佐古山城 |
林甫城 |
多良山城 |
館山城 |
塔の尾城
孝徳天皇第一宮・有馬皇子は謀反の故を以て、紀州(和歌山県)藤代坂で討たれたと日本書記には記載されているが、実はその従者が身替りに立ち、また追討ちに向かった者の好意によって、ひそかに丹波に遁れ、のち、船に乗って香住の地に着き、志馬比山周辺を隠棲の地と定め、海部の比佐を娶り、王子志乃武王をお生みになった。
志乃武王は出石小坂の女をむかえ、志馬比山の山上を切開いて、城砦を築き付近を領有された。
表米王との対面後間もなく両王とも薨去されたので、これを、入江大向うの岡の上に葬り去った。これが月岡古墳であるといわれている。
さて、この志乃武王の子孫、志乃武有徳は其の姓を篠部と改め、その邸宅を山頂から山麓東方の台地(オーシューダイ、御城台の意味)に移し、対岸の矢谷に川港の設備をし、壮観な菩提寺長見寺を建立した。山上には金毘羅大権現の社を置くなど、領地内の要衡とされたのだが、何分その間に神崎川が横流していて、交通その他に大きな不便が感じられるので、その対策として、その時代としては実に破天荒の大事業である、河川改修ならびに耕地拡張の大工事を企て、着手したのが延喜12年(912)であった。
その後29年経て天慶3年(940)に、ようやく完成をみたのである。
この工事によって今まで河川敷となっていた土地は勿論、一日市の柳池、七日市の御濠池、香住の泡原沼、森の鴨池などの低湿地は全部埋め立てられて、ここに70町歩という新しい耕地が出現したのである。
しかも、これらの耕地の大部分はその区画が井字形に整然と区切られている。さらに、この耕地全体の見通しのきく地点に、その時代の地積計算せいどである360歩1反の単位、小260歩の区画を置いて、がんじょうなる石畳で固め、面積丈量の基準台とし、その中央にはそのとき用いた丈量縄を埋め、その上に記念樹としてくすのきを植えている。
なお四隅には大石を置いてこの頂点と、洪水時に備えるために志馬比山・姫路山間に築いた堤防の頂点の水準が一致するようにねらい、将来において対岸の村落に被害が及ばないよう考慮が払われているなど、実に驚きの外はないのである。
このようにして、有馬皇子在世以来実に500年間、連綿として徳政をしき領地内の人々の尊敬の的となっていた篠部氏もやがてはほろびていく。延元元年(1336)寺に参詣した時、かねてから領地の事で不和であった長井庄釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりに、かねてしめし合わせてあった塔の尾城に鐘で合図した。ひと手は長見寺、ひと手は留守館へと攻め寄せたので、この不意打ちに驚いた篠部方は、必死となって敵を防いだが、衆寡敵せず、殊に充分の戦備も整えておらず、かつ寺に火を放たれたので、もはやこれまでと主従自刃して火中に投じ悲痛な最期をとげたのである。
一方留守館でも奮戦大いに努めたが、寺に火がかかったのを見て形勢の不利を知り、館に火をかけ一族北村七郎は息子を、日下部新九郎は息女を伴って脱出した。息女は南の山麓で敵の矢に当たり倒れ、息子もまた乱戦の間にゆくえ不明となって、さすがの名門もついにその跡を絶ったのである。
しかし、ゆくえ不明であった息子は首尾よく落ち延び、但馬国奈佐宮井城主篠部伊賀守方に身を寄せていたが、再起の望みもうまく行かず、京都に移り現在に及んでいるとの事である。
■時代/天武天皇7年(687)〜延元元年(1336)
■主な城主/志乃武王・篠部有徳
■現状/
JR香住駅の裏山標高約50メートルの山城。
山頂約2,000平方メートルが、上下二段の平坦地になっているが、現在は雑木林になっている。
なお、東側には町上水道の貯水タンクがある。
古図によると現在の矢田川が南側から東側に流れ、西側にお舟池、北側にお濠池がある。
昭和25年に、山頂より、建物の礎石らしいものや、銅製品の残片、青磁器、五輪塔の一部などが発掘されている。
兵庫県香美町香住区島山(駅裏) <城所在地図・・・・城崎郡の2>
(しまひじょう)
志馬比城
後光厳天皇(北朝)の御代、長左兵衛門尉信連の9代後胤である長加賀守忠連が、この山に居城して近隣を領有していた。
応安3年(1370)広峯牛頭天王を氏神として勧請し、応永19年(1413)には長福寺を移転し堂宇を寄進している。
篠部氏(志馬比城主)を亡ぼした塔の尾城の城主・長太郎左衛門は、領地を釣鐘尾城主・野石源太と分け合い、一族を塔の尾城に居らして支配していたが、奈佐宮井城主・篠部伊賀守の弟、篠部三河守が、先に亡ぼされた一族有信の弔い合戦の為に攻め寄せて来て、塔の尾城を奪取した。
しかし、建徳2年(1371)に至って、長加賀守忠連が再びこれを攻めて取り戻した。
のち豊臣秀吉が但馬地方を攻略するにおよんで、美濃守秀長の所領となり、追われてその跡を絶ったといわれている。
■時代/延元元年頃(1336)〜天正8年頃(1580)
■主な城主/長加賀守忠連
■現状/香住湾に突出する城山の山頂(標高50メートル)に約2000平方メートルの平坦地があり、現在は荒地となっている。香住港の点滅燈台があり、山麓に井戸があった。
兵庫県香美町香住区香住一日市字城山
<城所在地図・・・・城崎郡の1>
(とうのおじょう)
香美町香住区無南垣 <城所在地図・城崎郡の14>
(たらやまじょう)
多良山城
■時代/源平時代との言い伝えがある
■主な城主/刑部(ぎょうぶ)四郎左衛門行秀
八幡社のある山の一角にあり、佐津の平野部を眼下に見下ろす小高い丘になっている。
伝承によれば刑部四郎左衛門尉行秀は、但馬守平経正に従い、佐津荘を支配していた。ところが主と頼む平家一門は壇の浦に敗れ、源頼朝が征夷大将軍となって、荘園には地頭を置いて、平家の残党を追討するということが知れわたった。
行秀はこれを聞き、身の危険を感じ、ある夜、自分の妻女に腕の聞く従者をつけて、八幡社のある柴山の西北の「隠し」にかくまい、自分は小林勘右衛門、笹田新五郎、安坂喜三郎らと共に潜居すべき地を捜した。
はじめは竹野町椒の山奥に隠れ、名前を変えて世の動静をうかがっていたが、その後、奥佐津の茅野谷に移り、「隠し」にかくまっておいた妻女と従者を呼び寄せて、農業に励み土着したと言伝えられている。
光永寺裏山の高さ20メートルくらいのtころに200平方メートル余りの平坦地があり、ここが林甫城址だと言われていたが、第二但馬海岸有料道工事により削リ取られ消滅した。しかし、一説には高城とも書かれているので、その東側の約70メートルの高さにある平坦地が林甫城址ではないかとも考えられている。
長氏は山名氏の家臣として香住地方に勢力を有していたようで、次のような事件が『但州一覧集』に記されている。
出石の子盗山の城にいた山名俊豊の時代に、長越前守信行は美含郡林甫城の城主であった。塩冶左衛門は領分境のことで長越前と争っており、何とかして長を亡ぼして領地を奪おうと考え、長越前がむほんを企てていると山名俊豊にざんげんした。
そこで俊豊は「むほんの気持ちがないならば急ぎ登城せよ、もし来ない時は、むほんの企があるものとして、軍勢をさしむけて討つ」と命じたところ、長は急ぎ登城した。
時に天文9年(1540)正月19日であった。ところが、山名の家来、田結庄らが鳥居村に待受けており「上意である」といって長を討殺し、塩冶の軍勢は林甫城におし寄って攻めおとした。
長越前に亀若(7歳)、亀石(5才)という二人の子供があって、とらえられて殺害されたが、当時懐胎していた妻は、滝本三郎兵衛らの奮戦により、ようやく因幡にのがれて男子を出産した。
この子は13歳まで出雲で成長し長弥次郎と号したが、但馬にひそかに帰り、宵田の城主・垣屋筑前守に、父のむざんな死のことを話して助力を頼んだ。
垣屋のとりなしで弥次郎は許されて山名俊豊につかえることになる。
当時、塩冶左衛門は死んでおり、篠部伊賀守の弟がこれをついで、周防守と称して林甫城主だったが、弥次郎は垣屋駿河守の力をかりて父のかたきを討とうと企てた。
駿河守も周防守と領分境の争いをしていたのでこれに組し、永禄12年(1596)7月13日、周防守が無南垣村の長谷寺にまいった留守に弥次郎と駿河守の家来、・富森一本之助の軍勢が林甫城におし寄せ攻略した。
周防守は奈佐谷に落ちて行き、兄の伊賀守の応援をえて林甫城奪還に向かったが、結局うまくはかられて弥次郎に討ちとられてしまう。兄の篠部伊賀守は、田結庄を頼んで弟のかたきをとろうとしたが、垣屋駿河守がついているので急にはどうすることもできなかった。
天文9年(1534)以降の動きについては、豊岡市宮井の宮井城を参照されたい。
■時代/貞治の頃(1362)〜天正8年(1580)
■主な城主/長越前守信行
香美町香住区訓谷字輪峯
<城所在地図・城崎郡の13>
(りんぽじょう)
林甫城 (別名 輪宝山城 )
久下孫次郎左衛門尉泰光が居城したといわれるが、確かな所在地などは不明。
香美町香住区安木 <城所在地・城崎郡の12>
(さこやまじょう)
佐古山城
安木の地に安木土佐守景長の居城である荘司城があったと伝えられているが所在地などは不明。
香美町香住区安木 <城所在地・城崎郡の11>
(そうじじょう)
荘司城
安木と相谷の境界に当る尾根の上にあり、現在は山林となっている。
『佐津誌叢』に、輪宝山城の配下で、安木遠江守頼満・安木大和守頼実の居城とある。
■時代/天文元年(1532)〜天正7年(1579)
■主な城主/安木遠江守頼満
香美町香住区安木 <城所在地図・城崎郡の10>
(やすぎじょう)
安木城