南谷城
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南谷城 |
樋口ノ城 |
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伊賀谷城 |
森津城 |
新堂城 |
海老手城 |
亀が崎城 |
丸山のろし台 |
豊岡市の城 【1】
豊岡市瀬戸小字鳥が鼻 <城所在地図・豊岡市の1>
(せとのだいば)
『豊岡誌(下)』に次のような記録あり。
「文久2年(1862)5月23日、豊岡藩々議、十一寸半干嚢砲を津居山に備え柘榴弾、散弾各三十五個を貯え、一貫砲を瀬戸、気比に備え各々鉛弾三十、鉄弾十、散弾三十を貯え、和田垣大記に命じて之を監せむ」。
文久2年は生麦事件がおこり、翌3年には下関海峡で長州藩がアメリカ、フランス、オランダ艦船を砲撃し、薩摩でもイギリスの軍艦を砲撃して、尊皇攘夷に沸き返る時代である。
津居山と気比にすえられた場所は、詳らかでないが、瀬戸のお台場は、現在、豊岡市役所港出張所北側の岡の上である。
(たかしろ)
豊岡市気比 <城所在地図・豊岡市の2>
気比の南西に白山と並んでいる山が高城で、その中に鞍掛山がある。高城山は標高180メートルの独立した山城である。
『神美村誌』に出典を広峯文書として、次のように記載されている。
「湊川の戦いで南軍が敗けて楠木正成が戦死した後にも、なお但馬北部には南軍に味方する武士がいた。足利尊氏は今川頼貞に討伐を命じた。頼貞は伊達道西、伊達義綱を従え、延元元年(1336)但馬北部の南軍を攻略し、枚田(5月3日)、津居山の気比(5月16日)の戦いに勝利を収めた、云々。」
ここに「津居山と気比」とあるも、津居山は津居山湾一帯の総称であり、気比は現在の気比部落一帯を言うと考えられる。そして、南軍として抵抗したのが高城の城主であったのではなかろうか。城主の名は伝わっていない。
また、一説には、寿永の昔、源平の合戦の直後壇ノ浦の戦いに敗れた平家の侍大将、越中治郎兵衛盛継が気比に住みついた事にまつわる伝説などもある。
その伝説の一つとして、高城のふもとの石山のかたわらに毛彫りの仏像数体と舟形が刻まれており、平家の侍大将悪兵衛景清が刻んだといわれている。
この山城頂上部は二段の曲輪からなり、周囲に土塁をめぐらして攻めるに難く守るに易い城であったようで、古老の言うには数十年前には土器の破片や焼米が出たという。今では雑潅木が生い茂り踏査しても不明である。
山全体は安山岩からなり、まわりは30度以上の急峻な岩山である。
この城の南側は塩谷、北には鎧谷という谷があり、その昔攻防戦のあった時、北側の鎧谷に面した谷間に白米を流したり、白木綿を垂らしたりして頂上には水や食料は充分貯えがあるという智的な守りをしたという事が伝えられている。
鎧谷の入口に1メートル四方の泉井戸がある。ジャガ下(城が下)の井戸といって岩間から噴き出る良質のわき水が出ているが、これが頂上に供給したところである。
なお、翌延元2年にも小俣来全を部将とする北軍は6月21日田結荘城を、ついで妙見之尾、進美寺と軍を進めている。この田結荘は気比の隣接地であり、田結庄氏の居城であったと考えられるが、城の場所は確認されていない。
また、津居山の八幡神社境内(標高50メートル)も、神社裏(北側)に高低差3メートルの堀切り跡などから考えて、砦であったと推定される。
■時代 永享年間、または弘和年間〜天正3年10月
■主な城主 田結庄左馬助、田結庄是義
豊岡市内の円山川と六方川の合流点の右岸に屹立する標高115メートルの愛宕山。もとはここを鶴城と呼んだ。円山川を隔てて南側にある亀城(豊岡城・今の神武山)と対象してこのようによばれたのである。
この城は、永享(1429〜40)のころ、山名氏が築き、その家臣・田結庄左馬助に命じてこれを守らせたといわれ、また一説には弘和(1099〜1103)のころに築城されていたともいわれている。
但馬考によると、「田結庄は本姓平氏なり、代々城崎郡田結庄(豊岡市田結)を領しけるゆえに氏とせり。」とある。その田結庄は、山名持豊に従って嘉吉の乱には京都奉行として赤松満祐討伐戦に加わり、応仁の乱には京都にいて、持豊のふところ刀となって数々の戦功をたてている。
田結庄氏は、この鶴城を居城とすると共に、出石城下にも屋敷をもっていた。出石町内に田結庄の町名が残っているのがその場所である。
この田結庄氏は、左近将監是義の代になって、垣屋氏の勢力範囲である美含郡を併合しようとしてねらっていたようである。このため垣屋一門との間に、常にいざこざが絶えなかった。
天正3年(1575)6月13日(一書には5月3日)山名祐豊は長谷(豊岡市長谷)で、かきつばた見物の宴を開いた。宴たけなわのとき鶴が峯城(日高町観音寺)城主・垣屋光成の家臣が鉄砲で鳥をうったところ、その流れ弾が田結庄是義の幕の中に落ちた。是義は光成の家臣を直ちに捕らえて殺してしまった。光成は復讐決意を胸に秘めた。
同年10月15日、光成は宵田(日高町)城主・垣屋忠顕(一書には豊知とも)、轟(竹野町)城主・垣屋宗時らとはかり、田結庄の居城で栗坂主水の據る海老手城(豊岡市滝)を攻めた。是義は部下を派して反攻したが、かえって宗時のために敗られた。
ついで是義の軍は、光成、忠顕らの軍と野田(豊岡市宮島附近)で対戦し、再度敗れて鶴城にしりぞく。光成らは勝に乗じて城を囲み、是義は力尽きて山腹の正福寺に入って自害した。一書に、この戦闘は垣屋豊続、(亀崎城、または亀城、後の豊岡城と考えられる・・・の城主)が養寿院(豊岡市岩井)に参詣中、田結庄是義に囲まれて割腹した。その子、光成大いに怒り、豊知、宗時とはかり挙兵した。とも描かれている。
城は山頂部で三つの曲輪に分かれ、円山川に面した西の曲輪が最も広く2100平方メートル(70メートル×30メートル)あり、現在は愛宕神社がまつられ、鐘楼もある。(注・元和5年5月、金剛寺ノ主僧、盛長祠を営ミ愛宕ノ神ヲ祀ル。ココニ於テ愛宕山ノ称初テ起ルト云フ『三江誌』)
中の曲輪は東、西の曲輪より3〜4メートル下って450平方メートルの広さ。東側の曲輪が最も高く、円形で270平方メートルの広さをもち、南側は15メートルにわたって土塁も残っている。
東曲輪の東側は、深い切り通しを経て、100メートル級の尾根につづいている。西側の円山川に面した突端部(現在妙見堂がある)と、北側の貴布弥神社の上には、それぞれ出丸が構えられている。
なお、但馬考には「田結庄在城の時は、その家中は森、山本、火撫三村に住し、町家は舟町、宮島、六地蔵に住せし由」との記事も見られる。
写真準備中
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豊岡市内、栄町部落の東側の山頂(約100メートル)に平坦地あり、城ノ谷などの字も残されている。城主、時代など不祥。
豊岡市栄町 <城所在地図・豊岡市の4>
(みなみだにじょう)
豊岡市庄境 <城所在地図・豊岡市の5>
(ひくちのじょう)
樋口ノ城
樋口ノ城は、豊岡市庄境部落の一本松住宅団地の東側、通称天王山と呼ばれている山頂(100メートル)にあり、西側と南、北の三方の尾根部分には堀切りも見られる。
三江誌に「樋口城址ハ天王山ノ西、尾鼻ニ在リ、相伝フ樋口荘ノ領主樋口某、築テ之ニ居ルト。然レトモ事蹟詳ナラス」とあり。
豊岡市河谷、中谷、三宅 <城所在地図・豊岡市の6>
(こうだにじょうときぬがさやまじょう)
河谷城と衣笠山城
河谷城は、豊岡市河谷部落と中谷部落の境界上の山稜の突出部、標高200メートルのところにあり、豊岡盆地を一望におさめることができる。
頂上付近は一部を雑木林におおわれていて断定し難いが、西側斜面に向かっては三層の曲輪で構成されている。頂上部は、28メートル×15メートルの矩形状で本丸を形成し、その本丸の西側が1メートル上って11メートル×5メートルの広さで天守を形成している。本丸の東西両端は堀切りになっている。
東側は、ゆるやかな尾根つづきで、その尾根を東側に250メートル進むと穴見谷の三宅部落と、河谷、中谷の三部落の分水界である衣笠山城に通じる。
衣笠山城は標高214メートルの急峻な山頂にあり、南側には直線距離1600メートルのところに、三開山が対峙している。
山頂部の広さは、およそ600平方メートルの円形。南と北の尾根に一ヶ所ずつと、河谷城につづく西側尾根には、小規模ながら一つの曲輪と、それをはさんで両側に堀りが構成されている。昭和48年にはここにテレビ中継塔が建てられた。
衣笠山城は山名の家臣・茨木甚太夫の據った市場城の見張台といわれるが、地理的に見て三宅主計の居城といわれる穴見城に当るのかも知れない。
河谷城については、河谷部落、字河が谷側に、古井戸があったこと、中谷部落側に字殿替の地名が残されているほかに口碑も残っていない。しかし、地形的に見て、河谷城と衣笠山城で一つの城と考えられる。
豊岡市大篠岡、木内、駄坂、香住<城所在地図・豊岡市の7>
(みひらきやまじょう)
三開山城
豊岡市内の豊岡盆地と穴見谷の間に円錐形の端正な姿を見せている三開山の頂上(201メートル)に築かれている。
この三開山城とその周辺では、近世に至って3〜4回の戦闘が行われている
建武の中興なかばにして、南北朝に分かれて血みどろの戦闘がくりひろげられることとなるが、但馬国守護太田守延の滅亡のあとの但馬も、同様であった。
但馬の南軍は、これを統率する大将の派遣を越前(福井県)の金崎城にいる新田義貞に求める。
義貞は、わが子新田城之介義宗を三開山城に入らせ総指揮をとらせた。
延元二年、足利直義は、小俣来全を遺して但馬、丹波の南軍を討たしめた。この戦闘で三開山城や妙見山城は落城し、義宗は越前の杣(そま)山城に敗走してしまった。ただ、進美寺城(日高町)の南軍は、その後二年間、よく弧城を守ったという。
(1)
そのあと、三開山城は、再び南軍の手に陥ちたと考えられるが、そのころ足利方に組して因幡、伯耆、丹波に勢力をのばしていた山名時氏は、康永3年(1344)1月、三開山城を攻め陥し、この城に移り、自ら但馬守護となった(「妙楽寺文書」)
(2)
さらに下って山名時氏は京都の戦いで一敗地にまみれ、但馬を通って因幡まで退却する。このため、三開山には、三たび南軍の旗がひるがえる。
その南軍の首領が誰であったかは知る由もないが、この三開山城を文和2年、養父郡に本據をもつ伊達三郎が攻めたてた。
4月6日には三開山下の篠岡で戦闘が開始されている。
この戦いは8ヶ月の長い間、断続的につづいた模様で、7月4日からは六方田圃で戦われ、その間7月26日には大洪水があり、この洪水に乗じて南軍は数百隻の舟で奇襲をかけ、追いつめられた北軍は山中に逃げ込み、伊達三郎も肩に矢傷を負って戦線をしりぞくという一幕もあった。しかし11月28日には南軍はついに敗走した。(『伊達文書』)
(3)
その後の三開山城の盛衰は、よくわからないが、天正8年の羽柴秀吉の第三次但馬征伐で、落城した。との伝説もある。
(4)
■城の構成
山頂(本丸)は、東西35メートル、南北15メートルの楕円形の平地。本丸から4メートル下がって、輪郭式ながら東西に細長く二ノ丸があり、さらに西北側には階段状に四層の曲輪、西南にも一つの曲輪。
東側には二ノ丸から20メートルばかり下ったところに二ヶ所の切通しが設けられ、それから東側は馬の背のような尾根ながら、ゆるやかな稜線がつづいている。
どの曲輪にも石垣は見当たらず、おそらくは築かれなかったと考えられる。
大篠岡の中腹、標高100〜130メートル付近には、美事な石垣の残る元の瑞峰寺屋敷や素朴な布石垣の残る千畳敷屋敷をはじめ、武家屋敷といわれる場所が残されている。
駄坂側や香住側にも出丸と思われる場所、香住側にも武家屋敷といわれる場所がある。
なお、唱和25年ごろ、六方川の改修工事中に、木内の川筋で武具をつけた一体の人骨を掘り出したという。
いつの時代の戦いで戦死したのだろうか。その人骨の中から壷に入った砂金が出て来たが、その砂金は京都の古物商で数万円で換金され、飲み代に使われてしまったという。
豊岡市倉見字石谷 <城所在地図・豊岡市の8>
(こいでじんや)
小出陣屋
出石藩主・小出大和守吉英の三男、小出宮内英本は寛文6年(1666)に倉見字中地の古屋と称する所に分家し旗本となった。
享和3年(1803)に字石谷に移転した。これが陣屋で、13代小出邦三郎秀発まで存続したが、現在は大松一本、石垣、堀を残すのみになっており、背後に妙見堂がある。(『神美村誌』)
豊岡市上鉢山字城山 <城所在地図・豊岡市の9>
上鉢山城
上鉢山部落の裏山(58メートル)にあり、3つの曲輪で構成され、頂上部は約40メートル×10メートルの広さ戦国時代、田和豊後守の居城であったと称せられる。(『神美村誌』)
豊岡市市場字松原 <城所在地図・豊岡市の10>
(いちばじょう)
市場城
但馬守護・山名宗全の家臣、茨木甚太夫の居城の跡と称せられる階段状に4〜5段の曲輪がある。(『神美村誌』)
<城所在地図・豊岡市の12>
(なかのごうのしろ)
中郷の城
豊岡市中郷と出石町三木の境界、袴間峠の南側の山上120メートル地点にあり、中郷部落では通称城の山と呼び、三木部落側からは、これに通ずる谷を城の谷と呼んでいる。
未確認ながら、数段の曲輪で構成された頂部には100平方メートル程度の広場があると聞く。年代、城主など不詳。
<城所在地図・豊岡市の11>
(あなみじょう)
穴見城
豊岡市穴見谷にあり三宅主計の居城と伝えられるが、詳細な所在地は不明である。
豊岡市伊賀谷小字城山 <城所在地図・豊岡市の13>
(いがだにじょう)
伊賀谷城
豊岡市伊賀谷部落の北側、三柱神社の裏山一帯を字城山といい、標高200メートルの山上が城山と言われている。築城年代、城主など不祥。
豊岡市森津 <城所在地図・豊岡市の14>
(もりづじょう)
森津城
森津部落の字若桑と奥中谷の境界線上の通称大ナル、(標高110メートル)にあり、伊賀谷高原より南側に分かれた尾根を分断して、深さ4メートルの切り通しがあり、それから南側に極めて狭長な二層の曲輪から構成されている。
上の曲輪は巾12メートル〜4メートル×長さ30メートル、約240平方メートルの広さで、東側と北側に20メートルにわたって土塁が残されている。
二層目は巾7メートル〜4メートル×長さ40メートル、約220平方メートルの広さの極めて狭長で、しかもかなり傾斜をもった曲輪で、その先は深さ2メートルの切り通しを経て森津田圃方向に急傾斜となっている。
築城年代、城主など不祥。
豊岡市新堂 <城所在地図・豊岡市の15>
(しんどうじょう)
新堂城
豊岡市の新堂、栃江、宮井三部落の境界標高215メートルの山上にあり、新堂部落の国道上からは、3〜4段の曲輪と両側に切通しらしきものが遠謀できる。山頂は約200平方メートルの広さ。年代、城主など不祥。
豊岡市滝と森津部落の境界、大浜川のすぐ南側の標高79メートルの山上にあり、山頂の広さはおよそ200平方メートル、一部に石垣の面影を残すという。
この城は鶴城(豊岡市日撫)城主・田結庄是義の属城として栗坂主水が居城したが、天正3年10月の田結庄と垣屋の戦乱に際し、轟城(竹野町轟)城主・垣屋駿河守宗時に攻められて落城した。
栗坂主水は戦乱のあと仏門に帰依し、森津、新堂あたりで余生をおくり、死期迫ると知るや墓穴に安座し、鉦を打ちつつ大往生したと伝えられている。
新堂部落の氏神境内の宝きょ印塔は、彼の供養塔といわれている。(『五荘村史』)
なお、森津に「十六なわて」といって、栗坂勢十六将卒が田結庄勢に捕らえられ、打首にあった所とされている場所がある(『五荘村史』)が、十六とは条理制遺構の坪の名称である。
写真準備中
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豊岡市福田、森津 <城所在地図・豊岡市の17>
(かめがさきじょう)
亀が崎城
豊岡市福田と森津部落の境、通称亀が崎の標高65メートルの山上にあり、城とはいえ、狭長な尾根を巾10メートル程度に地ならしし、長さ140メートルの両端を南、北両端に高低差2メートルばかりの掘り切りを設けただけで、中心部には円墳がそのまま保存されているという。極めて簡単な構えである。
しかも、その構えの北側の尾根つづきで、最も要衝地と考えられる大浜川の湾曲部に面する突端部には、何らの構えも見られず、円墳二基があるだけである。
『但馬考』に「因幡垣屋氏系図として、但馬垣屋の初代・駿河守重教は、関東より山名時氏に従って但馬に入り、奈佐荘亀崎城に居る」とかかげ、この亀崎を「今の豊岡なり」と注記しているが、奈佐谷開口部のこの亀が崎も、地理的に見て豊岡盆地の北西部をおさえる要衝の地であり、重教がここに砦を構えたとしても故なしとせず、参考にかかげる。
豊岡市栃江小字丸山<城所在地図・豊岡市の18>
(まるやまのろしだい)
丸山のろし台
豊岡市栃江部落の裏山、標高64メートルの山の上にあり、現在は果樹園となっている。
頂部は30メートル×18メートルの楕円形の台地であるが、これをのろし台と見なしたのは、この丸山の北側の谷を城ノ谷と言いながら、その周辺には、丸山以外に城の構えが見られないことからである。
丸山から尾根づたいに1キロメートル北西に進めば、新堂城に達す。なお、丸山のろし台は、巨大な円墳の頂部を地ならしして築かれたものと考えられ、昭和初期には石棺の一部が発掘されている。