福田城
高屋城
宮井城
岩本砦
大谷城
小垣ノ城
石谷城
石屋の砦
目坂城
岩井城
奈佐氏の城
豊岡市の城  【2】

豊岡市福田小字杉崎<城所在地図・豊岡市の19>
(ふくだじょう)
福田城
標高50メートルの山上にあり、山頂は、長さ40メートル、広さ600平方メートルのひょうたん形の台地。奈佐谷に面した西側には40メートルにわたって土塁も残っている。この山頂から北側、東側、南側の三方にそれぞれ小さな曲輪が設けられており、南側の尾根つづきには切通しもある。築城年代、城主など不祥

豊岡市高屋字岩屋 <城所在地図・豊岡市の20>
(たかやじょう)
高屋城
豊岡市の高屋、福田、岩井の三部落の分水嶺136メートルの山頂が高屋城であり、岩屋の城とも呼ばれている。頂上は200平方メートルの広さで、三層の曲輪をもち、土塁や堀切りなどもよく残存しているが、時代や城主など不祥。

半径500メートル以内には、雅成親王ゆかりの地といわれる光明寺跡(高屋小字西ノ宮)や天正3年、垣屋光成と田結庄是義の攻防の際に焼かれた養寿院(岩井小字大原)の跡などがある。
なお、高屋部落字天王、通称金山、現在稲荷神社が祀られている山頂は城跡と考えられる。(元・豊岡高校校長・岩佐修理先生の言)すなわち稲荷社本殿うしろの一段高い部分に円墳があり、そのつづきの一段高い展望台は天守にあたる。高屋城の出城と考えられる。

豊岡市宮井<城所在地図・豊岡市の21>
(みやいじょう)
宮井城
宮井城は、豊岡市宮井部落から、矢次山の谷に500メートル入った標高162メートルの山頂に築かれた山城である。
山名の部将、篠部伊賀守の居城として知られている。

篠部氏は美含郡篠部荘の長氏の出といわれ、いつの時代に宮井城主となったかは、さだかでないが、文献に見られる事件として次のようなことがある。
『但馬一覧集』
(1)
大永年中(1521〜7)篠部伊賀守、大谷(豊岡市大谷)城主中沢蔵之助を夜討ちに押寄せ討ち滅して奈佐の庄を一円に押領せり
(2)
天正9年(1534)訓谷林甫(香住町)の城主長善秀、無南垣(香住町)城主・塩谷左衛門尉と言違いによって正月二十日、此隅山○○御前にて御腹めされ候。次の城大将は奈佐の篠部殿の御舎弟を御すえ被候て、名を三川殿と申し候  『長福寺古記』
(3)
弘治3年(1557)7月、長善秀の子弥次郎、林甫城の塩谷周防守(三川殿)を攻む。・・・・・篠部伊賀守は大軍を率い周防守を救援するが、林甫城は切りとられ、周防守は討死し、伊賀守は引上げた
                        『長福寺古記、但州発元記』
(4)
天正3年(1575)田結庄是義と垣屋光成との合戦に際し、伊賀守は当初は田結庄を支援し、不利と見て垣屋に屈服す 『但州発元記』
(5)
天正8年(1580)5月、羽柴秀吉但馬に討ち入る。水生城には垣谷、長、塩谷、赤木、大坪、篠部の各将立てこもって抵抗し、ついに落城す。ここにおいて篠部氏も滅亡す

一説には秀吉の但馬征伐に当たって、伊賀守は藤井伊助を宿南に派し秀吉に通じる一方、自らは水生城に立てこもる。水生城落城後は宮井に帰り恭順していたが許されず、城を討落とされ、伊賀守は白藤神社(豊岡市吉井)前まで逃れ、ここで自害したと伝う。

白藤神社鳥居横に石碑があり、これが篠部氏の墓と安政2年編の但馬新図にも記載されている。
城の本丸は660平方メートルの広さをもち、南側には、二の丸〜切り通し2ヶ所〜300平方メートルばかりの平地〜野垣方向への尾根とつづき、東側には斜面にそって少なくとも9つの曲輪がつくられている。

本丸と二の丸には土塁が残り、三の丸から五の丸の三層には、石塁の名残が見られ、豊岡市内では最もよく原形をとどめる城跡である。

宮井城から東へ500メートル、宮井部落内の秋葉神社の裏山も、6層の曲輪をもち、尾根づたいには2つの切り通しを設けられている。
この砦跡の小字を南殿と呼んでいる。宮井城の出城であろう。

この南殿のほかに谷殿、芳賀殿、平城など、屋敷あとと思われる地名が宮井地内に散在していて、いわゆる所堅固の構えが感ぜられる。
また、宮井城の鬼門に当ると考えられる宮井川をはさんでる北側の山ろくにはお宮があり、熊野権現、大日如来などがまつられており、その北側の山腹には、与作太郎の地名をもつ屋敷らしい場所も見られる。

なお、宮井地内ながら奈佐川の右岸側に小城鼻と称する小山があり、山上は500平方メートルの平地、南側への尾根づたいには切通しもある。宮井城の見張台と考えられる。

標高50メートルの山の突端にあり、山頂は約100平方メートル。
尾根につづく南側には巾10メートルばかりの小さな堀切と土塁が見られる。
また、奈佐谷に面する北、西側は急峻な断崖がつづいている。

築城年代など明らかでないが、地元の伝承では、宮井城主篠部氏より八十石を分け与えられて分家したものとされているので、宮井城の見張台かもしれない。
(別名比丘尼城)
豊岡市吉井小字岩本 <城所在地図 豊岡市の22>
(いわもととりで)
岩本砦

奈佐川にそって、山地の突出部、標高40メートルに構えられた小さな砦である。
砦は二層(小さなものを加えると四層)の曲輪からなり、全体の広さは約300平方メートル。尾根につづく南側には土塁や堀切のあとも見られる。

但州一覧集には「大永年中(1521〜27)篠部伊賀守ハ、大谷村ノ中沢内蔵助ヲ夜討ニ押寄セ打滅シテ奈佐庄一円ヲ領ス」とあり、その中沢氏の居城と伝えられる。
豊岡市大谷字土肥土 <城所在地図 豊岡市の23>
(おおたにじょう)
大谷城

豊岡市大谷、福成寺、内町の三部落の境界197メートルの山頂にあり、その山頂には現在は三等三角点が設けられている。

城は東北尾根づたいに三層の曲輪からなり、山頂の広さは約300平方メートル。ここから、およそ100メートル隔てた南西側尾根にも約100平方メートルの曲輪があるほか、尾根づたいに北側、300メートル、標高150メートル地点と南側の内町部落、月出神社の上の山、150メートル地点には、それぞれ小さな砦が構成されており、内町地内には馬場ノ岡の地名も残っている。
年代、城主など不詳。
<城所在地図 豊岡市の24>
豊岡市内町字小垣/大谷字竹が花
小垣ノ城

奈佐谷の奥部、内町、辻、目坂三部落の分水界、標高270メートルの山頂にあり、頂上の広さは約1200平方メートル。その頂上は高低差50センチメートルで輪郭式の曲輪があったと思われる。

南側には、さらに高低差5メートルずつで三段の曲輪があるようだが、現在は全山が雑木と小笹におおわれていて詳細は知り難い。

出石町にある福成寺の伝記によると「矢次山の中腹、祇山にあった福成寺は南朝正平年間に鳥羽村(現在・豊岡市福成寺)の郷士石谷備前と争論し、出石城主山名伊予守時義をたよって出石弘原庄下村花山に移転す」とあり、その石谷備前の居城といわれる。
豊岡市内町字中ノ谷  <城所在地図 豊岡市の25>
(いしたにじょう)
石谷城

豊岡市辻字石屋 <城所在地図 豊岡市の26>
(いしやのとりで)
石屋の砦
豊岡市辻と舟谷部落の境界、標高100メートルの山上にあり、山頂は約600平方メートルの平坦地で、西側の舟谷字北ノ谷の尾根に向かって小さな三重の堀切がある。

この山上からは奈佐谷の目坂側、河江側及び下流部、(内町、大谷)の三方の見通しができる要害の場所であり、石谷城、目坂城のいずれかの見張台であったと考えられる。

築城年代など不詳。

豊岡市目坂小字松本山 <城所在地図 豊岡市の27>
(めさかじょう)
目坂城
標高200メートルの山上にあり、頂上は二つの曲輪によって構成されるが、その全体の広さは約900平方メートル。

城の南端には二ヶ所、北端には一ヶ所の堀切りがつくられ、北端には、堀切りの土を盛り上げてつくられた土塁も残されている。その北側は大岡山への尾根につづく。

築城年代、城主など不詳。

目坂部落内には、屋敷、角屋敷、休場、馬場の地名が残り、小字中島には目坂城主と石谷城主とが争った折の戦死者を葬ったと伝える石塚もある。

豊岡市岩井小字湯舟 <城所在地図 豊岡市の28>
(いわいじょう)
岩井城
豊岡市岩井部落と佐野部落および日高町奈佐路のそれぞれの最奥の境界、245メートルの山頂にあり、二層の曲輪で構成され、一ノ丸は100平方メートル、3メートルの小段があって輪郭式に二ノ丸があると聞く。

築城年代、城主など不詳。

現在はこうのとり但馬空港があり、空港建設に当って周辺の山を切りくづして谷を埋め滑走路のための平地を作ったために大きく地形が変貌しているが、岩井城跡は整備され保存されている。(但馬空港の日高町側の駐車場横)

奈佐氏の城
南北朝時代に養父郡小佐郷の郷士で足利尊氏方の伊達氏の文書によると「延文3年、伊達三郎は奈佐を攻む」とある。

奈佐氏は、古代、但馬に君臨した日下部氏の分かれであるとされており、弘安8年の但馬太田文には、平等院領樋爪庄の下司として奈佐太郎高春の名が見える。

奈佐谷には、庄という地名が残っているが、居城などは不明である。ともあれ、奈佐氏は延文3年に、伊達氏に攻略されておとろえ、さらに文明3年(1471)には戸辺羅(戸牧)山の合戦で垣屋氏に滅ぼされるのである。