高生田城と同じ、山名の属将福富甲斐守に属していたものと思われる。従って、豊臣氏の但馬攻略にあい、天正5年(1577)に落城したものと思われる。
 説明
和田山町から出石へ通ずる糸井街道が、朝日峠への上りにかかる咽喉首を押さえる位置、海抜280メートルの山上に、三段ばかりの段丘が作られている。

石垣はないけれども、頂上の台地には十数箇所の石が散在している。かつての建物の礎石であったかも知れない。
時   代 応仁の頃〜天正5年落城
主な城主 福富甲斐守と伝える
現   状
<城所在地図 朝来郡の14>
(わだじょう)
和田城
別名市場城  和田山町和田
 但馬国出石郡桐野村は、天正19年(1591)までは、小坂村の一部で、字桐野と言い、出石川を隔て南方拾余町のところにあり、天正年代27戸であった。

 同地の住人、源兵衛・九郎兵衛・嘉右衛門などが、主体となって、別に桐野村と言う一村を立てようとしたが、庄屋役となる適当な人物がなくて困っていた。

 たまたま、出石町宗鏡寺の沢庵和尚が、かねて桐野に隠退したい志があることを聞いていたので相談に行ったところ、和尚が、「わしの知人にぴったりの人がある。それは、養父郡糸井に、福富甲斐守の子で福富紹意という人である。わしから頼んであげよう」とのことであった。

 桐野慈眼寺の記録にも檀越福富某とある。
 また出石加茂神社棟札に、永禄11年5月11日、山名右衛門督祐豊公家臣、三宅豊後守、田結庄右馬頭、及此外家臣34人が書き列ねてかる由、糸井中学校編 『糸井郷』の中に誌している。
 
 補説(福富氏の事)
 福富甲斐守は、出石郡出石町桐野の出身で、山名の属将として、糸井谷を支配していたものと思われる。盛時には城下に市場も開かれたりしていた模様であるが、山名の滅亡と共に帰農、子孫は出身地である桐野で、代々庄屋を勤めたようである。

 伝説によると、豊臣氏がこの城を攻めたがなかなか落ちず、占師に占わせたら、「この城東西に二道あり。あたかも巨人の両足を踏ん張った形である。即ち生城である。したがって、片足を切ったら必ず落ちるだろう」と。

 そこで早速、土民を集めて、本道である西の道を簸掘らせたらたちまち落城したという。

 説明
和田山町から出石へ通ずる糸井街道を眼下に見下す、海抜220メートルの山上に、三段の段丘を設けている。現在は雑木山であるが砦としてはかなりの結構をもっている。
時   代 応仁の頃〜天正5年落城
主な城主 福富甲斐守と伝える
現   状








<城所在地図  朝来郡の13>
別名福富城   和田山町高生田
(たこうだじょう)
高生田城
高貞(5)
高燭(4)
高教(6)
高孝(7)
高朗(8)
要之助(9)
高A(3)
高為(2)
寛文8年豊岡を継ぐ
宮津12万3千石
田辺
3万5千石
高門(1)
 糸井分家
糸井分家(1)
高盛
高門
寛文8年病気隠居



高三
高直
高住
京極高知

 糸井京極家家系図
 和田山町の旧糸井村地域は、平安時代は、法勝寺領であったが、徳川時代になって、京極氏、仙石氏、天領、(生野代官支配)と三分された。

 京極氏は、丹後田辺城主(舞鶴)として3万5千石を領していたのであるが、寛文8年(1668)豊岡に移封、後1万5千石に減ぜられ、明治に至っている。

 寛文3年(1663)京極飛騨守高直の長男伊勢守高盛が家督相続の際、次弟の兵部高門糸井に分家、陣屋を造築した。高門の所領は、糸井村の寺内・林垣・高生田で、1070石、美含(みくみ)郡長井庄で930石、そのほかに安房国安房郡に200石、計2200石であった。

 京極氏は旗本として、目付役や奉行などを勤めていたので、平素は家老黒澤氏に領内の行政をみさせていた。
 8代目の京極能登守高朗は、若い頃より非常にすぐれていて、外国貿易の開始と共に、貿易御用取扱を命ぜられ、文旧2年(1862)第一回遣欧使節の監察(大目付)を勤め、帰朝後は、神奈川奉行や長崎奉行を勤めた。

 説明
糸井京極陣屋・高生田城和田城

明治維新のとき、9代目京極要之助が、東京に移住、陣屋も不要となったので、学校用地として払い下げ、現在まで、寺内小学校校地として使用して来ている。

もちろん建物は改築、老杉も切り払われて、当時の面影を偲ぶものといっては、校門になっている陣屋の旧門だけである。
時    代 寛文3年(1663)〜明治まで
   主 な 城 主 京極氏8代
     現   状  












<城所在地図・朝来郡の12>
和田山町寺内
(いといきょうごくじんや)
糸井京極陣屋
城所在地図
但馬のへもどる
朝来郡の城(2)