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 『但馬国国主城主覚』によると、垣屋隠岐守が3年間居城したと記している。これを「城」としてよいか疑問であるが、あるていどの可能性は考えられる。

 観音寺は245メートルの高さがあり、東と西からのぼる尾根道のほかは絶壁である
寺院を本陣とした仮城であったのかもしれない。

 この垣屋隠岐守は、後に因州浦富に移り、垣屋惣観垣屋系図では宗観)と称したという(但馬国主城主覚)が、くわしいことは明らかでない。

説明
時  代 戦国時代末期
主なる城主 垣屋隠岐守
現  状 清富の観音山頂上に相応峰寺(天台宗)があり本堂の付近や山のあちこちに塔頭のあとといわれる平坦地がある。いずれも雑木・雑草におおわれている。
<城所在地図・美方郡の4>
美方郡浜坂町清富
(きよどめじょう)
清富城

 芦屋陣屋の項で述べたように、宮城豊嗣は寛永4年(1627)に所領の加増を得ると陣屋を芦屋から清富に移した。宮城豊嗣は、検地を実施して、4500石からの打出しをしたり、岸田川改修の大工事をして耕地の拡大をはかるとともに、清富陣屋の内ぼり、外ぼりをかねるようにした。

 また、道路の区画整理をして村立てをし、城下町としたが、極楽寺を清富村と改称したのもこの頃と思われる。

 宮城氏の本拠は江戸であり、清富の陣屋に家臣を派遣して支配させていたと考えられる。最初は二人であったが、寛永12年(1635)からは三人にふえ、さらに翌13年(1636)からは5人となる(宮階孝雄文書)。

 これらの代官は、畑治右衛門、川嶋治太夫、奥野六郎左衛門、藤岡初右衛門、奥村半左衛門、西川中右衛門、笹川権右衛門、喜多村長三郎、千代小左衛門らで、この家臣たちは多く近江の出身であったと考えられる。

 宮城豊嗣は寛永20年(1643)になくなった。豊嗣の死により、宮城家は除封となり、これより浜坂の村々は、京都の郡代五味備前守の支配下に入り以後天領支配地としての生活が続いた。

したがって清富陣屋は、寛永4年(1627)以来16年間の幕を閉じることになる。
説明
清富部落から相応峰寺と観音山に通ずる道路の東側に、石垣をきれいに積み重ねた約45アールの畑と小さな池が残っているが、これが清富陣屋跡である。

「かんざん荘」という建物が建てられており、町観光課による「清富陣屋跡」という標柱と、「清富陣屋由緒」の案内板が立てられている。
時  代 寛永4年(1627)〜寛永20年(1643)
現  状
<城所在地図・美方郡の3>
美方郡浜坂町清富字御屋敷ばたけ
(きよどめじんや)
清富陣屋
 天正8年(1580)、秀吉は弟秀長播磨、但馬の国守とし、豊岡には宮部善祥坊継潤を置いて二万石を給した。二方郡はこのとき、蔵入地として代官宮部氏の支配をうけた。翌天正9年(1581)鳥取城が落城すると、善祥坊は鳥取城主として、因幡の法美、邑美、八上、高草の四郡と、但馬の二方郡、合計五万石を支配したから、浜坂村などの二方郡は、宮部氏の所領となったわけである。

 宮部の支配は宮部継潤、子・長煕と二代20年間続いたが、関が原の戦で西軍に転向した長煕が慶長6年(1601)に奥州南部(盛岡)に追放されることによって終わりをつげる。

 この間、芦屋城には宮部の武士勝野勘左衛門、浅見孫市の二人が城代として支配していた(但馬国国主城主之覚)。

 城下に陣屋があり、そこに事務所などがあって郡内を支配していたと思われる。また宮部文書によると「但馬二方郡ノ奉行長瀬与八郎」の名前が見られるが、天正年中の二方郡の奉行といえば、芦屋の奉行所のことをさしているわけである。

 宮部長煕が奥州に追放されたあとは、若桜三万石の城主・山崎家盛の支配に入り、二方郡は指杭、二日市、七釜など九か村と、浜坂、居組の高の三分の二、合計1900石がその所領であった。

 慶長9年(1604)に諸寄村と釜屋村の入会問題がおこった時、芦屋陣屋の海瀬甚右衛門、河井惣右衛門、西川助右衛門の三人が調停に当っており、当時の陣屋の役人だったことがわかる(安本虎之助蔵白浜実録より)。

 慶長10年(1605)に至り、家盛は弟の宮城頼久に二方郡の大部分を与え、43か村6014石がその所領となった。当時の芦屋陣屋には、頼久の家臣・大野権内、奥野六郎左衛門、藤田新九郎、小河九郎兵衛、西川助右衛門の5人が、万事を支配したようである。(但馬国国守城主覚)

 慶長14年(1609)に宮城頼久がなくなった時、子の十二郎はわずか5歳であったので、養父の宮城豊盛が補佐役として実質支配をすることになる。

 豊盛は駿府で家康に仕え、家康が死去した後は、江戸に出て秀忠に仕えた将軍の談判衆という重職についている。元和6年(1620)宮城豊盛がなくなると、孫の宮城主膳正豊嗣があとをついだが、寛永4年(1627)加増になり、分割支配になっていた浜坂、居組など二方郡全部と気多郡の4カ村、およそ1万3,000石を領すると陣屋を芦屋から清富に移したので、ここに芦屋陣屋の時代は終わりをつげることになる。
説明
時  代 天正10年(1582)〜寛永4年(1627)
現  状 芦屋城の東側に「殿町」「館」という字名のところがあり、今は畑化しているが、奉行所はここに置かれていただろうと推察される。
<城所在地図・美方郡の2>
美方郡浜坂町芦屋殿町
(あしやじんや)
芦屋陣屋
芦屋城・芦屋陣屋・清富陣屋・清富城
 秀吉第二次但馬征伐は、天正8年(1580)に始まった。秀吉の弟・秀長らは、先に山名が回復していた竹田城を再び攻略し宮部善祥坊継潤とともに5月16日、出石城主・山名氏政を逃亡せしめ、氏政の父・祐豊は城に残り同月21日、70歳で病没したので出石城を収めた。ここに、長い歴史を有する但馬山名は滅亡してしまう。

 秀長軍はついで朝来の磯部、養父の八木、気多の垣屋らをさそって降伏させたが、美含の垣屋、二方の塩冶周防守は服従しなかった。垣屋、長の二氏は、水生城(豊岡市佐野)によって戦ったが、秀長軍は急に出石城をせめて山名親子を降し、垣屋をも誘降し、降将両垣屋、八木、磯部らをひきつれて二方の芦屋城の攻略に向かった『校補但馬考』)。

 塩冶周防守はのがれて鳥取山名に頼ったので、以後浜坂村など二方郡一円は、豊岡城主となった宮部善祥坊の支配下に入った。

 天正8年(1580)但馬を平定した秀吉は、さらに因幡に入り、先ず鹿野城を攻略、ついで山名豊国を鳥取城に攻め8月21日これを降ろした。

 ところが豊国の家臣、森下出羽守道誉、中村対馬守春次らはなお降らず、秀吉は兵を帰して姫路に帰った。翌9年(1581)森下、中村らは吉川元春に乞い、吉川経家を迎えて大将とし、鳥取城の備えを固めた。

 7月に入って秀吉は再び兵5万をもって鳥取城を攻めた。経家出城を雁金山に、また丸山にもとりでを築き、塩冶周防守をして雁金山を守らせ、奈佐日本助をして丸山を守らせた。

 秀吉は先ず雁金山を攻めた。周防守は必死に戦ったが、宮部善祥坊は兵を督して攻め立てたので、ついにかなわず、丸山城に走って、日本助とともにもれを死守しようとする。本城の鳥取城は、10月25日吉川経家の自刃によって落城した。

 この時秀吉は使を丸山城に出して「鳥取城はすでに落ちた。丸山城の陥落も寸前に迫っている。三将がもし切腹せば許すであろう。」と伝えた。

 周防守、日本助らはここで切腹し、丸山城も秀吉軍の手に落ちたが、周防守はこの時65歳だったという(因幡民談記)。

 鳥取市丸山(旧因州岩美郡中郷村浜坂)には、周防守の墓石と碑があり、今も地元の人々から「但馬の殿さんの墓」といわれしたしまれている。

 小林哲夫氏の史料によれば、塩冶周防守には一男一女があり、芦屋城がおちた際、老臣村井治郎左衛門安友に命じ、撫育成長を頼んだ。

 男子を千代若丸といい、因州巨濃郡高野城に養育していたが乱世が治まらぬため、浜坂郷士松岡長右衛門により成長した。その後本姓をさけて米山弥次郎と名のり、因州巨濃郡池谷村神職宮垣家に頼み、主従二人この地にいたが、ついにその地に住みついた。

 後世その屋敷を外村といい、今なお旧跡を存しているとのことです。
3、芦屋城落城と塩冶周防守

 この戦いは、芦屋城主・塩冶左衛門尉の弟・塩冶肥前守が、鳥取城主・武田高信の軍勢を迎えうった戦いである。(戸田でえかべの伝説はこの戦いと関係がある)

 因幡国布施城主・山名豊数は、巨濃郡道竹城主・三上右衛門尉を攻めほろぼし、その勢いに乗じて郡中を平定しようとしていた。そのころ、鳥取城主・武田豊前守高信は大いに威勢をふるい、国主・山名家の命を聞かず、時あれば山名豊数と一戦を交え、布施城を攻め落とさんとねらっていた。

 当時布施城は鳥取地方の本城であり、久松山頂の鳥取城は、布施の出城であった。本城布施の城主・山名豊数の方も、武田高信を攻めほろぼさんものと、双方戦備おこたりなく、その機会を待っていたが、豊数は志空しく病死してしまった。

 後をついだ弟の豊国も、その後時期あらば高信を攻めほろぼさんものと、作戦おこたりなかった。このころ芦屋城主だった塩冶肥前守は、武田高信の妹むこだったから、塩冶・武田の両家は親戚の間柄であり、仲むつまじく助け合っていたが、ふとしたことで不和を生じ、犬猿の間柄となっていた。

 これを知った山名豊国は、たびたび使者を送って塩冶肥前守をくどき、ついに味方にとりこんでしまった。これを聞いた高信は、「親戚の身であるのに、豊国に力添えするのは不届千万だ」と大いに怒り、ついに芦屋城攻略を決することになる。

 時に元亀3年(1572)8月、武田高信自身は鳥取の城に残り、長男武田又太郎次男与重郎弟で鴨尾城主・武田又三郎の三人を大将とし、家老・西郷因幡守の長男与五郎を参謀として、但馬に進撃してきた。

 その面々は大江城主・伊田下野守、小畑城主・甲斐守、秋里一族塩見村高山、高野、吉見など三家、岩常城主・三上三郎右衛門などを旗頭とし、約800の大軍が海陸の二手に分かれ、海手勢は鳥取城下より軍船に乗り、加露港より出発して諸寄に上陸、一方陸の方は岩井口を経て羽尾、陸上を越え、奥諸寄の京屋谷に本陣を構えた。

 一方、迎えうつ芦屋城の方でもすでに防戦準備なり、山中の要所に塁壁を築き、峰や谷々の要所に大木、大石を積み上げ、さらに弓矢組を設けて伏兵を配置し、兵糧を十分にたくわえて、敵兵の来るのを今や遅しと待ち構えていた。

 威風堂々隊伍をそろえて城下まで攻め寄せた武田勢は、一気に攻め落とさんものと、けわしい山腹にただ1つ残された小路を、押し合うように半ば攻め登ったところ、かねて用意していた大石や大木をにわかに落としたので、たちまちにして総くずれとなり、あわてて下山を開始した。

 これを見た塩冶勢は、諸所の要衝から弓矢でいかけたので、討死するもの、あるいは手傷を負うものその数を知らずといった有様になった。

 この時、用意していた一族、栃谷城主・塩冶左衛門尉をはじめ、七釜城主・田公筑前守指杭城主・屋谷伯耆守井戸城主・河越大和守、黒阪城主・黒阪因幡守、その他郡内郷士連200余の伏兵が出て、武田勢の背後から不意打ちをくわせたので、武田勢はさんざんに打ち破られ、総くずれとなって四方八方へ逃げ散っていった。

 塩冶勢は更に追撃し、大庭たんぼ、今の戸田部落付近で最後の大激戦を展開し、多くの武田勢を打ち殺したり、とりこにしたりした。

 この戦いに軍将・武田又太郎はじめ、副将・鴨尾城主・武田又三郎らはことごとく戦死したが、武田与重郎はようやく逃れて、一時栃谷村字谷山にかくれたが、土民に発見されて、竹槍でつき殺されてしまった。
                                                      (以下略)

以上は『因幡民談記』や『大庭軍記』に記されているものを要約したものであるが、両者の内容には多少相違が見られる。人物なども一致しない点があるが芦屋城にまつわる貴重な戦記ということができる。


2、庭中合戦
 塩冶氏は、このように古くから但馬にいた事は明白で、根拠地はといえば、二方郡、場所はと言えば、やはり芦屋城のある芦屋の地が考えられるのである。

 『大庭軍記』によれば、「阿勢井ノ城ハ、サノミ高山ニテハナケレドモ、岩石重クソビヘ、山険クシテ切立タルガ如シ、東北ハ海水ヲ湛ヘ、容易ニ攻メ寄ベキ所ニアラズ・・・・」と述べているが、二方郡を支配し、因幡方面への備えとしては、城塁ていどの城とはいえ、全山けずった如く切立ち、前後に海をめぐらして、付近にない要害の地であったと思われる。

 『但馬国国主城主覚』によると、ここに25騎いたというから、いざの時の末端兵は、地方の土豪や百姓が徴集されたものと思われる、

 このころは武士と百姓の区別はまだはっきりしていなかった浜坂の六軒衆の一つといわれる湊兵衛は、浜坂の湊の兵衛であって、塩冶氏の支配に一役買ったものと思われる。
    7、塩冶彦五郎    永正7年(1510)                         (楞厳寺文書)
    8、塩冶周防守    (光照院殿梅月宗光大禅定門)天文8年(1529)   (芦屋竜潜寺過去帳
    9、塩冶前野州大守 永禄9年(1566)                       (相応峰寺過去帳
    10、塩冶左衛門尉  天文11年(1542)                         (校補但馬考)
    11、塩冶肥前守   元亀2年(1572)                 (「因幡民談記、陰徳大平記』)
    12、塩冶周防守   天正9年(1581)                 (     〃     〃    )
以上の塩冶氏は、その在地も明確ではないが、諸般の事情から考察すると、やはり二方郡の出身であろうと思われる。次の塩冶彦五郎からは、二方郡に根拠をもつ者であることは明確である。

    
塩冶氏の人名は、割合に古くから史料にあらわれる。

    1、山名殿御内延屋 文明5年(1473)                        (校補但馬考
    2、山名殿より諸家へ御使あり、太田垣美作、延屋云々・・・・・文明6年(1474)(校補但馬考)
    3、塩冶周防守    延徳3年(1491)                        (校補但馬考)
    4、塩冶孫四郎    明応2年(1493)
    5、塩冶週防守、同彦次郎 明応2年(1493)                     (校補但馬考)
    6、塩冶周防守、塩冶民部丞、塩冶彦次郎、永正〜大永の間(1504〜1527)  (因幡民談記

 
  
  いま、塩冶氏の家系を考察してみると、次のとおりである。

 『陰徳太平記』に塩冶氏の家系を記して「この塩冶という者は佐々木の一族にして、代々但馬に在住し、国の郡司にいたりしが・・・・」と記し、また『美方郡誌』にも、「塩冶氏は清和源氏(宇多源氏または近江源氏の誤りと思われる)の一族にして、足利義詮のとき、佐々木周防守二方の国(郡)を与え、山名氏に属せしめ、芦屋城におらしめた。・・・・」と記している。

 この記事によると、但馬塩冶氏は出雲塩冶氏の一族ということになるが、「佐々木系図」(『姓氏家系大辞典』)をみると、これを裏付けるように、有名な塩冶高貞のおいに、塩冶通清(三河守)を記し、その四男周防守、その子「某(但州塩冶)」と記してある。

 史料からみると、楞厳寺文書の中に、右の塩冶三河守通清が山名時氏に従っていたらしいことが見え、このことから、四男周防守、孫の某(但州塩冶)が、但馬に定住したことが考えられる。『美方郡誌』の記事から言えば、この当時から「二方郡芦屋城」に居城した事になっているが、確証はない。

1.塩冶氏の家系

 芦屋城は亀が城といわれ、浜坂地方では、最も親しまれている城であるが、その実際は明らかでない。城主も塩冶周防守といわれるだけで、芦屋城といえば塩冶周防守という結びつきで語られているていどで、この城主・塩冶周防守なる人物についても判明していなかった。

 昭和42年に『浜坂町史』が出版されるに及んで、その実態の解明が大きく前進したので、従来の地元資料に記されていたものとも比較しながら述べてみる事にする。
説明
東に芦屋部落を望み、南側は芦屋坂につらなる険しい斜面、北と西側は日本海を眼下に見下ろす断崖、標高140メートルの山城である。

二の丸と称する平地は、約400平方メートルの広さで、雑木と雑草が生い茂っており、ここより北西のさらに標高約20メートル高い所に、本丸と称する平地があり、雑草の中に約60年ほど経過した松の自然木が生えている。

両方とも石垣らしい石もなく、清水のわき出るところも見られないが、本丸と二の丸の間の北側斜面の中腹から、明治・大正のころ(当時桑畑であった)刀のさびたのがたくさん出土したといわれている。

二の丸の下にはNHKテレビの大きなアンテナが建てられており、本丸の下には中継塔が建てられている。
時  代 南北朝末期(1390)ごろ〜天正8年(1580)
主 な 城 主 山名の部将・塩冶周防守
現  状
<城所在地図・美方郡の1>
美方郡浜坂町芦屋字城山
(あしやじょう)
芦屋城
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美方郡の城 【1】