秀吉の天下となった本能寺の変(1582)以降の城は、鉄砲戦に耐え得るよう水堀(巾30メートル以上のものが必要となる)や石垣をめぐらし、その上に土塀や櫓さらに天守閣を築いた堅固な構えが必要となってくる。
また城下には武士のみならず、町人・職人が集められて、町づくりが築城の大切な要件ともなる。
そうなると、わずかの財力の領主では築城は困難となる。
かつ桃山時代になると大名はそれぞれ知行(禄高)制となるが、江戸時代に入ると、その禄高によって城つくりも規制されるようになる。(例えば、二万石以下の大名は城を築くことは許されなかった)。
その当時の城が安土時代から引き続いて築城されたと考えられる豊岡城であり、関が原の合戦(1600)を経た徳川時代に築かれた城が現在見られる出石城であり、陣屋としては村岡・浜坂の二つの陣屋である。
豊岡城は、宮部善祥房、のちの継潤が天正8年に築城し、彼が鳥取城主となったあとに杉原氏が入って完成させたと考えられるが、標高50メートル、本丸の面積およそ1000平方メートルの平山城を中心に半円状に湾曲する円山川を外堀として、西側の弱点には戸牧(とべら)川からの水を溜めて沼をつくるなど、小規模ながら所(ところ)堅固の城を構築している。
また、出石城は慶長年間に小出吉英が築いたと言われているが、旧式な有子山城を詰の城(退避用の城)として残しつつ、現在見られる町割をして城下町をつくり、谷山川を利用した水堀をめぐらし、その上に梯郭式三塁から成る石塁を廻らした平山城を構築している。御殿や隅やぐらも、その際建てられたと考えられるが天守閣は築かれていない。
元和元年(1615)徳川幕府によって武家諸法度が定められ、この中で一国一城も布達された。これは、徳川氏が天下を統一したあとの諸侯の戦力を減じさせようとする意図を持って行われたものであったが、これによって但馬で城と言えるものは出石城だけとなった。
以後、但馬に於いては新しい築城はなく、その後建てられたものは、糸井・土田・大藪・山本・倉見・清富・村岡の陣屋と生野代官所など、すべて居館としての構えでしかなかった。
そこには、もはや城というには、余りにも近代化された様式の城塞の息吹が感ぜられる。
近世の城
鉄砲は織田信長によっていち早く戦術的価値が見出され、長篠の戦(1575)では信長は三千丁といわれる足軽の鉄砲隊を駆使して武田勝頼軍を敗走させたが、そのころ山陰の出雲国では、尼子軍を援助する但馬の奈佐日本之の助の水軍が、毛利軍の鉄砲によって完敗している。
木下そして羽柴(のちの豊臣秀吉)による三度の但馬征伐で、どのように鉄砲が活用されたかは知る由もないが、このころから城は石垣積の進歩と相まって大型化、堅牢化し爛熟期を迎える。
すなわち、永禄12年(1569)織田信長は木下藤吉郎をして竹田城を、そして山名の本城此隅山城を疾風の如くに攻略する。
これによって一度は織田に降った山名祐豊は、天正3年(1575)には出石・有子山標高320メートルの山頂に大規模な城を築く。本丸、二ノ丸、蔵屋敷、西ノ丸、侍屋敷と曲輪を重ね、本丸、西ノ丸の要所には石塁をめぐらし、北ノ丸との間には深さ約10メートルの堀切り、山下にも侍屋敷や寺が構えられて、従来の小規模の此隅山城と比べて面目を一新する。
しかし、この天正3年こそは、信長が長篠の戦で鉄砲の威力を天下に誇示した年であり、築城戦術の抜本的な改革をせまられる年でもあったのは皮肉と言わざるを得ない。
現在見られる石垣をめぐらした壮大な竹田城も、実は羽柴秀吉の但馬征伐の直後に抜本的な修築がなされたものであることは、城郭研究家のひとしくみとめる所であり、恐らく信長が毛利攻略のために桑山重晴をして、築かせたものと考えられている。
八木城、豊岡城(亀城)も秀吉の但馬征伐のあと、石塁ある城に改修されたものと考えられているが、ともあれ安土時代における但馬を代表する城は、竹田城と有子山城の二城であり、特に竹田城は信長による天下普請だけに城郭面積は2.5ヘクタールと極めて豪壮であり、いまに残る石垣の優美さと相まって天下の名城と称されるゆえんである。
この五つの城を最後に、但馬においても中世の山城の時代は終わりをつげる。
安土・桃山時代の城
城はいつ頃から発生したか、わが国では飛鳥時代の6〜7世紀から、西域防衛や蝦夷地経略のために城や柵を設け、防人や屯田兵が置かれた事が知られているが、但馬で史料的に確認されるのは、南北朝時代(1334〜1392)からである。
しかし、それ以前に但馬に城郭がなかったとは考えられない。
平安時代には但馬の国衛が気多郡に置かれていた事は知られているし、鎌倉時代の初頭には常陸房昌明、のちの太田昌明が源行家誅伐の功によって、太田荘(現在の但東町太田)の地頭職を与えられて現在の但東町太田の亀(かめが)城を築いたとされているし、同地の大将軍館がその居館であったとも言われている。
また、弘安8年に鎌倉幕府に提出した但馬太田文の中に現われる但馬地内の地頭(太田文では、約50人の地頭名が見られる)や荘司のうち、相当数のものは一円を領国化し、それぞれの地に居館をもち、ある程度の構えをそなえていたことであろう。
なお、但馬各国には、城郭伝承地も多い。本書ではこれら伝承地も、ためらわずに掲載した。伝承の城として最も古いものは香住町の志馬比城であり、時代は飛鳥時代にさかのぼるという。
しかし、いずれにしても鎌倉時代までの城の多くは居館程度のものか、山城といっても天嶮によっただけで、人為的な構えは微弱だった。天嶮を利用した山城に、人為的な構えが強化されてくるのは、南北朝時代(14世紀前半)以後とされている。
南北朝時代の城として、三開山城、気比城(以上、豊岡市)進美寺山城・八代城・大坪城・水生城(以上、日高町)・宿南城・妙見の尾(以上、八鹿町)・土田富栖城・磯野城(以下、和田山町)などがあげられる。
室町時代(1338〜1573)の城は、さきにも例示したように、もはや枚挙にいとまがない。
この室町時代の後半の戦国時代になると、商業や手工業の発達とともに、築城技術も進み、築城における堅固三段の構え(国堅固・所堅固・城堅固)というような軍学上の用語もあらわれてくる。但馬各地に城塞網が最もはりめぐらされた時代である。
ところが、これらの城にはげしく改革を呼びかけ、そして多くの城をして廃墟におちいらしめる時期がそのあとにやって来た。それが鉄砲の伝来である。
古代〜中世の城
出典「但馬の城」但馬文化協会・発行
城の語源は、古語の「しろ」(代)であり、中世の頃から用いられるようになったといわれている。
代とは、一定の場所を区画することを意味する。水稲の苗を育てる田を苗代(なわしろ)ということや、耕起した田に水をはって地ならしすること作業を代掻き(しろかき)ということなどから、代の意味を察する事ができよう。
また、城は古語で「じょう」とも、「き」とも呼ばれていた。現在でも姫路城・大阪城などすべて「じょう」と呼んでいるし、平城・山城・小城などは「じろ」とも「じょう」とも呼ばれる。
また「き」も水城(みずき・福岡県)、鳥海柵(とりのみのき・岩手県)などの固有名詞として残されている。
このように、いろいろと読まれる城(しろ)を定義づければ「軍事目的をもって選ばれた土地と、そこに設けられた防禦的構築物」といえようが、要は外敵を防ぐ構えである。逆に構えということばには、城を意味する場合が多い。日高町内の「東構」「西構」が楽々前城に関係があるのか、南北朝時代の「荏原」の戦闘に関係があるのか、ほかの目的なのか、今後の研究に待ちたい。
さて、城といえば石垣や水堀がめぐらされ、櫓(やぐら)が築かれ、天守閣もそびえている・・・・というのが、代表的な城といえるが、そのような城はほとんど、安土・桃山時代(1573〜1600)以降の城であり、それは全国的にも極めて限られた数である。
より多くの城は、山頂を地ならしして曲輪(くるわ)とし、その中に簡単な櫓(矢倉とも書く)を建て周辺に土累をめぐらし、尾根を分断するために堀切りがつくられていた・・・・という程度のものである。
但馬でも、規模の大小の差はあっても、但馬国守護山名氏の本城であった此隅山城(出石町)をはじめ、垣屋氏の楽々前城(日高町)、塩谷氏の芦屋城(浜坂町)、田結庄(たいのしょう)氏の鶴城(豊岡市)などの代表的な城を含めて、ほとんどの城が、このような山城である。
城を分類して、本城、砦(小規模の要塞)、陣屋(軍兵の営所。江戸時代になると主として知行一万石以下の小藩の諸侯の居館をいう。)、狼煙台、場合によっては館などに分けられようが、本書ではこれらを総称して城として取り扱った。
但馬には、このような城が今回の調査で200余ヶ所もあることがわかった。そしてまだ多くの未確認のものも存在すると考えられるし、なかには例えば倉見城(豊岡市)のように、昭和30年代には存在していたものが、40年代には土取り場となって、痕跡さえもとどめぬ・・・・というような城が、他にもあることだろう。
それにしても、何故これほど多くの城が存在するのだろうか。
例えば、室町時代の後半、戦国期(16世紀)の但馬国内の勢力関係を大観すれば、但馬国守護・山名氏(此隅山城、のちに有子山城に移る)を頂点として、その四天王と呼ばれる太田垣・八木・垣屋・田結庄の四氏をはじめ、長・塩谷・田公などの有力部将が、だいたい旧郡別(明治時代までは、但馬は出石・朝来(あさご)・養父(やぶ)・気多(けた)・城崎・美含・二方・七美の八郡である)に配置されていた事が知られているし、そのほかにも、土田・枚田・福富・磯部・三方・篠部・栗坂・沼田・安木・上山・赤木・下津屋・大坪・西村・矢谷・奈良など、第二軍級の多くの部将がいた。
これらの守護をはじめ多くの部将が、それぞれ本城を築き、それぞれが出城や見張りの砦をかまえていた。
垣屋氏の城だけでも、楽々前城を中心に、鶴ガ峰城・宵田城(以上、日高町)、轟城(竹野町)があったことが知られているし、そのほかにも九日市の在所や亀城(のちの豊岡城)福田城(以上、豊岡市)も一時期には垣屋氏の本陣ないしは支城であったと考えられる。
このように、城は但馬各地に網の目のように張り巡らされていたのであるし、これを鎌倉時代(1192〜1333)にさかのぼれば、但馬国守護・太田氏を頂点として、各地の地頭や荘司によって城塞網が張り巡らされていたのであろう。
すなわち、時代が異なる事によって、主も異なり、場所も異なって城塞が築かれていたのであろうから、但馬国内に200余の城があっても当然という事になる。
城とは何か
但馬の城について