大永年中
(1521〜7)
篠部伊賀守、大谷(豊岡市大谷)城主・中沢内蔵之助を夜討ちに押し寄せ、打ち滅ぼして奈佐の庄を一円に押領せり   『但馬一覧集』
天文9年
(1534)
訓谷林甫(香住町)の城主・長善秀、無南垣(香住町)城主・塩谷左衛門尉と言違いによって正月二十日、此隅山〇〇御前にて御腹めされ候。次の城大将は奈佐の篠部殿の御舎弟を御すえ被成候て、名を三川殿と申し候   『長福寺古記』
弘治3年7月
(1557)
長善秀の子・弥次郎、林甫城の塩谷周防守(三川殿)を攻む。

・・・・・篠部伊賀守は大軍を率い周防守を求援するが、林甫城は切りとられ、周防守は討死し、伊賀守は奈佐に引上げた        『長福寺古記、但州発元記など』
天正3年
(1575)
田結庄是義と垣屋光成との合戦に際し、伊賀守は当初は田結庄を支援し、不利と見て垣屋に屈服す     『但州発元記』
天正8年・5月
(1580)
羽柴秀吉、但馬に討ち入る。水生城には垣屋、長、塩谷、赤木、大坪、篠部の各将立てこもって抵抗し、ついに落城す。ここにおいて篠部氏も滅亡す。

一説には秀吉の但馬征伐に当って、伊賀守は藤井伊助を宿南に派し秀吉に通じる一方、自らは水生城に立てこもる。水生城落城後は宮井に帰り恭順していたが許されず、城を討落とされ、伊賀守は白藤神社(豊岡市吉井)前まで逃れ、ここで自害したと伝う。白藤神社鳥居横に石碑があり、これが篠部氏の墓と安政2年編の但馬新図にも記載されている。

城の本丸は660平方メートルの広さをもち、南側には、二ノ丸〜切通し二ヶ所〜300平方メートルばかりの平地〜野垣方向への尾根とつづき、東側には斜面にそって少なくとも9つの曲輪が作られている。

本丸と二ノ丸には土塁が残り、三ノ丸から五ノ丸の三層には、石塁の名残りが見られ、豊岡市内では最もよく原形をとどめる城跡である。

宮井城から東へ500メートル、宮井部落内の秋葉神社の裏山も、6層の曲輪をもち、尾根づたいに二つの切り通しを設けられている。この砦跡の小字を南殿と呼んでいる。宮井城の出城であろう。この南殿のほかに谷殿、芳賀殿、平城など、屋敷あとと思われる地名が宮井地内に散在していて、いわゆる所堅固の構えが感ぜられる。

また、宮井城の鬼門に当ると考えられる宮井川をはさんでる北側の山麓にはお宮があり、熊野権現、大日如来などがまつられており、その北側の山腹には、与作太郎の地名をもつ屋敷らしい場所も見られる。

なお、宮井地内ながら奈佐川の右岸側に小城鼻と称する小山があり、山上は500平方メートルの平地、南側への尾根づたいには切り通しもある。宮井城の見張り台と考えられる。
宮井城は、豊岡市宮井部落から、矢次山の谷に500メートル入った標高162メートルの山頂に築かれた山城である。
山名の部将、篠部伊賀守の居城として知られている。

篠部氏は美含郡篠部荘の長氏の出といわれ、いつの時代に宮井城主となったかは、さだかでないが、文献に見られる事件として次のようなことがある。
豊岡市宮井
(みやいじょう)
宮井城
<城所在地図・豊岡市の21>
豊岡市の高屋、福田、岩井の三部落の分水嶺136メートルの山頂が高屋城であり、岩屋の城とも呼ばれている。頂上は200平方メートルの広さで、三層の曲輪をもち、土塁や堀切りなどもよく残存しているが、時代や城主など不祥。

半径500メートル以内には、雅成親王ゆかりの地といわれる光明寺跡(高屋小字西ノ宮)や天正3年、垣屋光成と田結庄是義の攻防の際に焼かれた養寿院(岩井小字大原)の跡などがある。
なお、高屋部落字天王、通称金山、現在稲荷神社が祀られている山頂は城跡と考えられる。(元・豊岡高校校長・岩佐修理先生の言)すなわち稲荷社本殿うしろの一段高い部分に円墳があり、そのつづきの一段高い展望台は天守にあたる。高屋城の出城と考えられる。
<城所在地図・豊岡市の20>
豊岡市高屋字岩屋
(たかやじょう)
高屋城
標高50メートルの山上にあり、山頂は、長さ40メートル、広さ600平方メートルのひょうたん形の台地。奈佐谷に面した西側には40メートルにわたって土塁も残っている。この山頂から北側、東側、南側の三方にそれぞれ小さな曲輪が設けられており、南側の尾根つづきには切通しもある。築城年代、城主など不祥
豊岡市福田小字杉崎
<城所在地図・豊岡市の19>
福田城
(ふくだじょう)
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福田城・高屋城・宮井城
豊岡市の城 【2】