関宮町吉井の支村である中瀬部落の北側にかなり広い河岸段丘が続いている。この河岸段丘にある浄土宗常運寺(現在無住)付近から山麓にかけて「城山」と呼ばれ、現在は畑地になっている。
かって中瀬鉱山が多くの金を産出していたころ、これを管理する武士の住んでいた陣屋の址であろう。
<城所在地図・養父郡の6>
関宮町中瀬
(なかせじょう)
中瀬城
<城所在地図・養父郡の5>
関宮町尾崎の八木川南岸、見山(けんやま)の山麓に標高260メートル、八木川よりの高さ約80メートルの小山があり、「尼ヶ城」(あまがじょう)と呼ばれている。
その頂上には約10アールの平地があり、かなりの石が散乱している。この尼ヶ城について次のような伝説がある。
豊臣時代の末、この尾崎に一人の尼僧が旅姿でやってきて5,6日滞在し、その間に何回も山に登って地形を調査して帰っていった。そして、翌年、再びやって来た尼僧は「私は、一生この土地に住みたいので、その城を造りたいから村民の協力を願います。」と多くの金子を差し出して頼んだ。
そこで、村人達は石工を雇って城の石垣造りを開始した。ところが、ある日、尼僧が激しい腹痛をおこして京都へ帰ってしまったため、工事は中止されたが、その跡には大きな石垣と寄せ集めた石と「尼ヶ城」という地名が残ったのであると。
この城も天皇山城址と同じように秀吉の但馬征伐の際、あわてて工事をはじめたが未完成に終ったものの一つではなかろうか。
関宮町尾崎
(おざきあまがじょう)
尾崎尼ヶ城
関宮町関宮小学校城山、通称片岡部落の山麓尾根の突端部を城山(しろやま)と呼んでいる。頂上に屋敷址と思われる5アール余りの平地と、さらに一段高く1アールほどの台地があり、そこに「片岡家の墓」という石碑が建ててある。
また付近に「馬子屋敷」という地名と、城に水を引いた水路の一部が残っている。
古老の話によれば、「昔、片岡氏という豪族が住んでいたが、よそから多くの武士が来た(羽柴秀吉の但馬征伐か?)ので、恐ろしくなって轟の山へ逃げた。これが轟の片岡家のはじまりである。」と、以来、片岡家は轟で栄え、明治15年頃には県会議員をしていた片岡寿左衛門翁は国道9号線の改修に大きな功績を残したが散財もはげしく衰微した。
その玄孫辰朗氏は現在豊岡市加陽(かや)に住んでいる。片岡辰朗氏によれば「片岡の城山に13代住み、轟に10代住んだときいているが系図その他、何も伝わっていない。」と、中瀬にも、この片岡家の分家といわれる片岡姓が5戸あり、その中で片岡肇氏がこの城山の墓の世話をしている。
<城所在地図 養父郡の4>
関宮町関宮
(かたおかじょう)
片岡城
新兵衛
九右衛門
現在当主12代成介
宗朝
宗寿
朝延
輝信
光景
景近
表米王
16代
光保
光明
白岩氏略系
白岩氏は同家に伝わる系図によると、朝来郡竹田城主・太田垣氏の後裔で、天正5年、羽柴秀吉の但馬征伐の際、城主・太田垣能登守朝延は敗れて播州に逃れ、子の輝信も逃げて山名氏に仕え、孫の新兵衛が吉井村白岩に住んだとある。
そして新兵衛の子の、九右衛門は帰農し、地名をとって白岩とし白岩家の初代となったと記されている。
説明
関宮町吉井部落の八木川を隔てた対岸を山道に沿うて登る、その辺一帯は「白岩」と称する字である、石ころの道を約300メートルばかり行くと右手に松や雑木におおわれた丘陵が見える。
通称「城の山」はこれで、かつて太田垣新兵衛の居城であったといわれる。
城の山の見える所から左へ100メートルばかり行くと数本の老松茂った屋敷跡があり、苔むした岩の配置などから、城主の館址とも想像され、今もって残る廃屋には昭和38年まで城主太田垣の末裔という白岩氏がここに住んでいたと言う。
城の山の頂上は5アールほどの平坦地となっていて、その周辺は一段下がって幅5〜6メートルの段地がとりまいた二段構えの単郭城址である。
その形態は朝倉城址に酷似している。全体に樹木が繁茂して登山道も草に埋もれている。
時 代 |
天正〜慶長の頃 |
主な城主 |
太田垣新兵衛 |
現 状 |
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白岩城
<城所在地図・養父郡の3>
別名 城の山 関宮町吉井字白岩
(しらいわじょう)
尾崎天皇山城・白岩城・片岡城・尾崎尼ヶ城・中瀬城
関宮町尾崎
<城所在地図・養父郡の2>
関宮町尾崎と支村和多田との間に北方から東南に延びる標高250メートル余りの尾根があり、明治以来、この地に神武天皇の遥拝所がもうけられていたのでこの山を天皇山という。国道9号線から70メートルの高さである。
この山頂に長さ約50メートル、幅約15メートルのほぼ長方形に高さ約1メートルの石垣を築き、さらに、その中央部に長さ約15メートル、幅約8メートルの部分を一段高くしてこれも石垣で囲んである。
東南の旧山陰街道(国道9号線)に面する急斜面には三重の石塁で守り、石垣の下には、幅約2メートルの壕((濠)の址も残っており、西北方の尾根の側には高さ約2メートル長さ約10メートルにわたって土手を盛り上げて敵を防ぐ工夫がしてある。
この城址に立てば、眼下には旧山陰街道が通り、八木川流域を東は三宅から西は中瀬まで一望に納めることのできる要塞の地である。
古老(森脇勝治氏)の言によれば、「天皇山の上に城を築く段取りをしたということは聞いているが、城が建っていたということはきいていないので、おそらく八木城の出城を造りかけたが、八木城が早く陥落したため、間に合わなかったのではなかろうか?」
と、また、「天皇山の山麓に、斜に建てられた切石があるが、これもこの城とつながりがあるのではなかろうか?」と、この切石とは、24センチメートル×18センチメートルで長さは地上部180センチメートルで、約30度の角度に立っている。
曲輪の形などから考えて、室町時代末か、安土・桃山時代の城と考えられるが、城主など不明である。
(おざきてんのおやまじょう)
尾崎天皇山城
養父郡の城 (1)