田垣掃部素姓のこと   附 宿南氏の事
ここに当国養父郡(やぶぐん)宿南の里に田垣掃部といふ隠士のごとくなる百姓あり。その先祖を尋ぬるに、表米親王の苗裔朝倉余三大夫宗高が末流也。余三大夫が末孫朝倉右衛之門亮広景が舎弟に掃部之助信季とて武勇勝れし者あり。

 延元の頃、兄・右衛門之亮広景は足利尾張守高経に属せり。舎弟掃部之助信季は新田義貞の舎弟脇屋刑部大夫義助に属し、延元歴応の乱、二度の軍功を顕はし、瓜生篠塚に肩をならべし勇士也。

 義貞の討死の後、歴応三年四月、脇屋刑部郷義助官軍催促の為、四国へ渡り給ひしが、同五月俄に病死果て給ふ。
その時、鞆(とも)の合戦に信季討死す。子息・左衛門信豊、万死を逃れ、越後へ帰り、義助の長子・右衛門督義治を助け、観応三年閏(うるう)二月、武蔵野合戦の時、手柄を顕す。

 その後、南朝、大いに衰へ、新田の人々も
武蔵・上野・信濃の間、在所定まらず。所々に漂泊し給ふ故、信豊も後には一身を置くべき所なく、但馬に下り、養父郡宿南の里へ身を隠せり。

 さて、また宿南の里に存在せる小名あり。宿南常陸之助光政といふ。康永の頃、館を山の峯に移す。後の屋敷を館と云ひ伝へ、今にその名あり。これ日下部の苗裔なり。その子・修理之助光直、相続の子息なく、同郡、八木但馬守が舎弟・八木右京といふ人を養子とせり。

 その頃、山名伊豆守時氏に属す。八木は日下部の氏族なるが故、宿南の家を継ぐ。この人所領、数ヶ所、持ち参り、もっぱら発向せり。されば信豊、同血の因縁を以って、常陸之助を頼み、宿南の地へ蟄居す。

 信豊、子息二人あり。嫡子は田垣太郎宗豊、ニ男を杢之助信俊といふ。兄・宗豊は、観応三年、武蔵野にて討死す。この時、杢之助十一才。これも後に父ともども漂泊し、宿南に住す。また一人の忠臣あり。池田助左衛門といひ、信豊に恩を受けし者なるが、浪人の後まで影の如くつき従ふ。これも勝れし勇力の者にて、数多の戦に手柄をあらはし、信豊を救ひしこと切なり。左衛門片腕の如く思ひ愛せし故、さてこれまで付き添ひたりとぞ。

 ある時、信豊、助左衛門に向ひ、さても南帝、御聖運つたなくましまして、諸国の官軍武威衰へ、新田楠もあるかなきかの如く。在々所々に身を隠したまふ。我らもよる所はなく昔の因縁を以って但馬へ身を隠し、草木と共に朽ち果てんと思ふ也。汝は眷属足利の内にありて武威盛ん也。我に付添ひ身を捨てんより、親類を頼み足利へ身を寄せなば一生安全ならん。

 われは又父、信季一旦官軍に属し、脇屋の恩を受け、四国に於て討死し、また嫡子太郎宗豊は、御子息・義治の御為め命を落とせり。かく父や子は義心に命を捨てしに、われ何の面目ありて命をながらへん。然れども、諸国の官軍時を得て蜂起し、新田の貴族義兵を挙げたまふと聞けば、一人なりともその時切って出で、親子共討死して御恩を報ぜんが為、暫く山林に身を隠さん。その方は未だ壮年の身といひ武勇に秀でし若者なれば、これより何方へなりとも身を寄せ、立身出世を遂ぐべし。

 かく浅ましき、我ら親子に付添ひて一生埋木と朽ち果てんは残念なる次第也。かかる忠節の汝へさへ、いささかの恩賞をも与えずして、離れん事こそ、口惜しけれとて、懐中より金子を取り出し、その半ばを分け、是はわが軍用の為に、これまで所持せしかど、汝が忠節深く、これまで付添ひし恩賞、露ばかりの印なりと差し出したれば、助左衛門、一言の答へもなく、さしうつむきて居たりしが、これは口惜しき仰せを承はるものかな。

 それ人は、一言の情けを感じて一命を軽んずるも、人情の実義なり。しかるに、われこれまで君の御恩をこうむりながら、主君の落ぶれ給ふを見て恩義を忘れ、二君に仕へ身を立てんは、人間の恥る所にして道にあらず。われも父、池田兵衛が云ひし言葉、耳の底に留りて忘る事なし。

 父われに語りしは、先帝、北条の逆臣を亡ぼし、天下御一統の時に、四海王命に従はざる者なし。しかるに新田、足利、確執おこり、高氏公、朝敵となり、別に天子を立て、その身、征夷大将軍の武命を国下に顕し給ふにつき、名利を重ずる武士、将軍に属し、たちまち王命を背く者十にして八九に満てり。

 わが主君、右衛門亮広景殿も足利高経に属したまふ。我らも御供して、足利殿へ参るべし。御舎弟なれば、掃部之助殿は、一度、王命に従ひ、脇屋殿の恩を受けし上は、ただ今、一命を果たすとも二君に仕へずと、義を重んじ、兄弟、立ち別れたまふ。

 その時、我らが祖父・池田助大夫、三人の子を持てり。嫡子・太郎と三郎は、父とともに広景殿に従ひ、北朝へつき奉る。二男・兵衛は掃部之助殿へ属し、南朝へつき奉るべしとあるを以て、父は君の御父君・信季殿の御供して、脇屋殿へ参りしなり。

 されば父・兵衛は、南朝に身をよせて、一命を捨て、君は南朝の為に、山谷に身を隠し給ふ。われ義心の君父に背きて、いづくへ仕へて名を穢(けが)し候はん。たとへ山谷に埋もれ民家に降りたまふとも、君に付添ひ手足の如く召使はれてこそ父が詞に背かず、わが存念にも叶ひ候へ。是非御暇を被仰候はば、御目の前にて生害し、二心なき心底をあらはし候はんと腰刀に手をかけしかば、信豊驚き押し止め、両眼に涙を浮かべ、かく腑甲斐なく落ちぶれし我ら親子へ付添ひ、一生埋木にならんことをあはれみ、かくは申せし也。

 一命をなげうちての忠節、感ずるにたへたり。さらば共に身を隠し時節を待つべしと、主従三人打ちつれ但馬へ下り、宿南の里へ身を隠しける。これ田垣掃部の先祖なり。 (次のページへ)