付 高清、鎌倉の命をこうむり怪獣の白猪を射る事
当国、日下部の伝記を見聞するに、保元・平治の頃、養父郡朝倉の里に日下部余三太夫宗高といふ者、在住す。その根元を尋ぬるに、日下部氏は人皇九代・開化天皇の曽孫・彦坐王(ヒコイマスキミ)の後也と姓氏録に見ゆ。

 又彦坐王の五代の孫を船穂足尼
(フナホタコネ)の尊と云ひ怪力無双の強勇ひて、夷賊を亡ぼし給ふ。人皇十三代・成務天皇の御宇、但馬の国の造(ミヤツコ)に定めたまふ由、旧事本記に見へたり。後世の人、船穂足尼を表枚(ヘウマイ)親王と言ひ伝ふるなるべし。されば宗高が嫡子・太郎高清、所の地名を名乗り朝倉太郎高清といふ。後、入道して朝倉入道敬雲といへり。

 勇力、人に勝れ、武名国中に響かせり。寿永二年、平家に属し西海に赴く。元歴元年、平家滅亡の時、高清、当国に逃げ帰り、七味郡小代谷に隠蟄す。

 時に、頼朝、諸国に命を下し、平家の余党を尋ねしむ。当国は三浦之助、承って山谷幽谷に至るまで厳しく探しむ。朝倉太郎、身を隠すべき所なく、鎌倉に下り罪を謝す。

 これに依りて、高清を義澄に預け置かれるるとなり。ある時、義澄の嫡子・平六兵衛義村、高清に向かひ御辺の骨柄、凡人の及ばざる容貌なり。力量もまた人に勝れたまふと聞き及べり。かかる勇力ありながら、かく召し人となられし事、口惜しく思しめす。何にても
業をして見せたまへといふ。

 高清、からからと打ち笑ひ、唐土の項羽は万夫不当の勇あれども、運尽きぬれば烏江に自ら刎
(クビハ)ね、我が朝にても、相馬の次郎将門は鉄身といわれし、豪勇なれども、秀郷が矢に命を落とせり。

 われらが如き独夫の小勇、賞するにたらず。かく召人となり当家に預けられしより、日々の御懇じ忘れ難くとこそ存じ候へ。この上は最後の時を待つばかりに候。しかし御望みとあれば、少し持ち得し力、御目にかけたきものをと、あたりを見廻すに、一間に多くの弓を立て並べしを見てあり。中にて強き弓を四五張、お貸しあれといふ。

 
義村、心得て、滋藤の三人強なるを三張渡しければ、又二張かしたまへといふ。義村また二張渡しけり。高清、五人張の強弓を一張一束につがね、五筋の弦をゆびにかけ、引き絞り引き絞りする事、つねのよわ弓をひくが如く、さして手にこたへる風情なく見えれば、義村、手を打ちて、誠に無双の勇士かなと賞美せり。

 その頃、関東に怪猛の白猪ありて、夜な夜なあらはれ出て、五穀損亡し、人を害する事、数を知らず。姿、七尺余り、武士に命じて、これを狩しむるに、昼は姿なく、夜に入りて現はれ出で、飛び行くこと風の如し。弓にて射せしむれども鉄石の如く、矢の根砕けて立つ事なし。人を恐れず駆け廻わり、奪迅の勢、磐石の落ちかかる如く、人を多く踏み殺す。

 さしも名を得し勇士といへども
これを討ち取るに術なく、空しく日を送るうち、占者(うらかた)注進しけるは、西国に異形の武士、この怪獣を獲るべしといふ。その人を求むるに、彼の朝倉太郎高清なるべしと。

 高清、身の丈、七尺。色黒く遍身・毛深くして熊の如し。又好んで熊の毛皮を以て裘
(かわごろも)とし、状貌、人を驚かす。諸人、皆占者(うらかた)の指す所、この人ならんといふ。三浦之助義澄、聞くと、ひとしく鎌倉殿へ、この旨、言上す。

 頼朝卿、聞こし召され、されば彼に命じて悪獣を討たしめよとなり。
義澄、私宅へ帰り、この旨、高清へ語る。高清、大きに悦び、わが身の浮沈、この時にありと思ひしが、かかる消顕の怪獣なれば、勇力ばかりにては討ち獲りがたしと思ひ、三七日の暇を願ひ、七日の内に当国に帰り、養父大神水谷の社へ参篭し、これを祈り、七日に満つる晩、夢中に明神一筋の鳴鏑(かぶらや)を賜ふ。

 驚き覚めて見れば、この矢わが手の中にあり。信心肝に徹し、ありがたく神拝の礼をなし、かの矢を持ちて、鎌倉へ赴き、神授の
鳴鏑一筋にて、ついに悪獣の白猪を射倒す。

 この功賞に依りて、頼朝その罪をゆるし、所領を安堵し、国に帰るを得せしむ。しかるに、当国の一族、これを聞きて会議して曰く、彼、常に己が勇を奮い、人を蔑
(ないがしろ)にする事、法に過ぎたり。このたび大功を顕し鎌倉の命をこうむり国に帰らば、その振る舞い前に倍せん。早く謀らずんば、後、必ず制し難からんと、一族、馳せ集り、建久六年五月二十三日の夜、養父郡堀畑村に待ち受け、朝倉太郎高清が帰るを窺ひ、取り囲んで闇討ちにせんとす。

 高清は、かかる企てありとは夢にも知らず、何心なく道を急ぎしに、不思議や先立って、明神より授けたまひし一筋の鳴鏑より、光を放ち
、響き渡って飛び出し、真っ先なる従頭を射殺す。高清、これに心つき、従者に下知し、寄せ集めたる徒を十方に切り散らし、国に帰りける。

 その後、この神徳を報いんとて養父大神の祭礼に二百本の的を射さす。的の裏に白猪を画きて後世の証とす。また明神の傍らに、表米の宮を建ててその他、城崎・妙楽寺に、わが身も丈とひとしき、阿弥陀仏の像を造りて、安置せしかとや。

 初め、高清、男子一人ありしが、没落の時、奈佐奉高が養子とす。これが、奈佐太郎高春といふ。その後、鎌倉の免許をこうむり、国に帰りし後、鳴鏑をば、奈佐太郎に譲る。その後、男子、四人出生す。朝倉太郎高俊、八木五郎重清、宿南三郎光高、田公四郎清景、これ皆、その住せし地名を以て氏とす。これより高清が子孫、国中に満々たり。

 高清、八代の孫を朝倉右衛門亮広景といふ。建武の頃、足利尾張守高径に属す。その弟・掃部之助信季は官軍、脇屋形部の太夫義助に従ひ、四国鞆の合戦に討死す。子息、左衛門信豊は漂泊して、主従三人、但馬に下り蟄居せり。

 兄・広景は足利高径に属して後、越前の国、吉田の郡、黒丸の城代に補せらる。それより相続きて七世朝倉孫衛門敏景に至るまで、足利家の幕下たり。応仁の乱に敏景始めて、山名宗全に従ひしが、また文明三年、足利へ帰参し、斯波
(しば)の分国、越前を給はり、代々所領す。その曾孫・朝倉孝景に至り、織田信長に亡ぼされ、家断絶せり。 (次のページへ)
日下部氏並に朝倉太郎高清が事