されば掃部は勝之助の働きにて悪盗の難をのがれ、その領主の褒美に預り、祝気之に過ぎずといへども、長子・鶴千代の病気次第に重ければ大に心を痛め、医療さまざま手を尽くし諸神諸仏へ祈念すといへども、そのしるしなく、鶴千代、今年十五歳、常に文学を好み、年には過ぎて発明なれば、掃部夫婦の寵愛深かるに日に増して頼み少なく見へければ、母綾女は病人の枕をはなれず介抱せられけるを、病人鶴千代、心にかかりしや母の手を取り苦しげなる気色にて、母上深く御嘆き下さるまじ、この年月の御厚恩を蒙りし事海山の如し。

 父母の御養育にてかほどまで成人せし上は何卒本復して孝を尽くし、御心をも慰め奉らんと思ひしに、定まる寿命は神仏の御力にも叶わぬ事にや、顔淵の如き聖賢の人も父母に先立ちたまふと論語に見えたり。

 又、小式部十一の時大病にて心細く見えければ、父、保昌、母の和泉式部、枕の左右に座し、本復なからんを察し嘆き悲しまるるを小式部大病ながら、一首の歌を詠みける。

      いかにせん 行くべき方も思ほへず
                親に先立つ 道を知らねば

 かく詠じて涙を浮めければ、天井に感ずる声、風の如く聞こえしが、病人忽ち平癒せり。これ偏へに神明の御加護ならんと悦び思ひしに、天命限りあるにや、それより三年を過ぎず、十三歳と申すに終に身まかりしと聞こえし。

 かかる事の候へば、われら若し相果て候とも定業と思へば心にかかること候はず、ただ先立ちしあとにて父母の御嘆きたまはん事こそ黄泉路の障りともなりなん。

 これまで限りなき御恩を受けしばかりにて、露ほども恩を報じまゐらせず、このまま世を去らば不孝之より大なるはなし。わが如き言ふ甲斐なき不孝の子はありて益なしと思し召し、必ず御嘆き下さるまじ。

 弟、喜代若はわれと違ひ、身体聖固にて心も功に見え候へば、父母の御力ともなり候へと、両眼に涙を浮かべせん方なげなるを見て、綾女涙に咽びながら、側なる助次郎が妻に、これきき候へ、重き病なるに、わが身の苦痛をば厭はず、母の嘆かん事をいとひ練むる心の不憫さよ。

 この子は幼きより弟喜代若とはちがひ、心やさしく、成人の今まで母が側をはなれず、明暮学問を好み、われら夫婦に事へること手足の如く、親孝行を大切と信実に道を守りしに、かく大病に身を苦しめ頼み少なくなり行くは、神も仏もなきなりと、臥し転びてぞ歎かるる、心の内ぞあはれなり。

 病人側なる者に、弟を呼び申せと也。喜代若、枕元に座し、兄の病を問ひければ重き枕を少しあげ、ようこそ尋ね候ぞ。いかに喜代若、聞き候へ。われらこの度重病取り結び、父母の御世話を蒙ること限りなけれども、薬力のしるしもなく、身体日々に衰へ心細ければ、全快覚束なく思ふなり。

 われ若し相果てなば、父母の御力とならん者は其方ばかりぞ。されば常に申聞けし事を忘れずして、親孝行の道懈ることなかれ。御側を去らず、手足の如く御用をきくべし。親に背く者は人にてはなきぞ。

 又、その方常に武芸を好む。尤も父の御許しあればこれもあししと言ふにはあらず。随分油断なく稽古すべし。さりながら武道を好む者は、事により身を果たすほどの大事など起こるものなり。常々用心こそ肝要なるべし。

 たとひいかなる堪へがたき事ありとても堪忍の二字を忘れず、身の危きに近よるべからず。身体髪膚父母に受けたれば、そこなひや傷(やぶ)らぬを孝の始めとすとは孝経の教なるをや。父母御存命のうちは、身をわが物とは思はず親の物と思ひ、心のままになすべからず。

 されば唐土魯の国に下荘子と言ひし人は、天下に名を得し勇士なりしが、母存命の中に戦場に出でて三度逃げたり。母卒去して後戦場に出で敵の堅陣を破ること三度、その度毎によき大将の首を得ること三甲、かくて魯の将軍に見(まみ)えて曰く、始め三度逃げたるは、老いたる母いますが故也。然れども、われ之を恥とす。今、母没しぬ、由ってその恥を雪ぐなりと申せしとかや。

 汝もこの心を忘れずして身を大切に、孝行の道をおこたることなかれと言ひければ、弟・喜代若始終をきき、兄の顔の痩せ衰へたるをつくづくながめゐたりしが、幼き心にも哀れとや思ひけん涙を流し打ちしをれたる有様を見、その方に言ひ置くこと、此の外になし。

 母上の事、かへすがへすも頼むぞと言ひ終り十五と申すに、花の粧ひ衰へて無常の煙と消えにける。之をきく母綾女の心思ひやられてあはれなり。 (次のページへ)
付 綾女なげきの事
鶴千代病死の事