高木掃部は去冬、長子を失ひ、またこの春は妻女病気に取結び、これも大病にて心元なく見えしかば、かく引きつづきたる災難にその身も身体つかれ、何となく心細く思はれけるが、かほどの時節には弱味を便りに、魔魅の障碍(しょうげ)をなさんこと測りがたし。

 伝へきく、昔より物の障碍は名剣の徳を以て払ふことありしと言へり。わが家に二腰の名刀あり。之を床に祭りおきなば祈祷ともならんと思ひ、奥の座敷を清め、机の上に錦の陣羽織を敷き、二口の太刀を祭りける。

 太刀は大祖父・信季、脇屋刑部卿より軍功の賞により拝領せしなり。この太刀三条宗近が作にて二尺四寸、勝れし名刀と聞こゆ。

 又、護り刀は表米親王より日下部の家に伝はりし短剣なり。之は天国の作にして世上に稀なる刀なり。大祖父・信季兄弟立ち別れしとき、その父・朝倉衛門大夫広高、二男なれども掃部之助の義心を感じ、家に伝はりし守り刀なりとて譲りける。

 この二品の太刀刀と錦の陣羽織は、祖父・信豊牢人せし時まで身をはなさず、今の掃部に至るまで伝来せし宝なり。掃部は心細きままに、用事の隙には妻女の病間へ見舞ひ、心を慰めんと四方山の物語などせられけれども、内室は余のことに心を移さず、只一筋に浄土往生の為め、念仏の外他事なく、一向専念の勤め懈らざれば、掃部その心を感じ、其の方は誠に世界第一の宝を得られたるものかな。

 それ人界のありさま貴賎の差別なく、盛衰の顛倒せること、たとへば浮雲の如し。三界無安なることを察すと言へども、真実菩提心を起す人稀なり。其の方は、かく仏法に入りしことの浦山しさよ。われもその心なきにあらねど、諸事に紛れて何となく浮世の事に隔てられ、等閑に日を送るこぞ本意ならね。

 かかる病の床にありながら、寸暇も怠りなく勤行せるこそ奇特なれと、涙を流し賞美せられければ綾女この詞をきき重き枕をあげ、うれしくものたまふものかな。去んぬる夏頃より、引き続きたる災難によろづ心を痛めたまはん。

 われら息災にて御心をも慰めまゐらせ、御世話申してこそ御身の友ともなるべきに、鶴千代が憂ひに引き続き、かく病の床に臥し、数々御世話になるのみか、御心をまで苦しめまゐらすことの悲しさよ。

 われ唱名専念の行を勤むるも、弥陀の名号は末世の為めばかりにもあらず、今世の利益深しときく。されば圓光大師も現当二世の祈祷には弥陀の名号にまさるはなしとこそ、のたまひしぞや。

 われ寿命尽きずば快気してながらへん、定業ならば極楽往生の願ひとすべし。とにもかくにも、わが身は弥陀に任世奉り、大慈大悲の御本願にすがり無量の光明に身をつつまれ、変成男子の願を遂げ、弥陀の浄土へ往生せんと仏の御来迎を待つばかりなり。

 われ若しなくなり候ふとも、かへすがへす御嘆きたまはり候ふな。妻子は衣服の如しとは元徳の言葉なるをや。又、石瓦の如しとも言へり。われ世を去らば早く心ばえよき後妻を迎へたまへ。

 われにまさりて勤めなば今の物思ひは自然と忘れたまふべし。由なき事に心をいため、わずらはせたまはば、喜代若が難儀となるべし。御保養を専らに心慰めたまへ。

 掃部は妻女の心底あはれに思ひ、両眼に涙を浮かめながら、人病ふとて死するに定まりたる事なし。御身こそわれらがことを案じずして、神仏の御加護にて早く全快したまはり候へとなり。

 かくて二月もすぎ弥生も半ばになりけれども、掃部の家は静かに物さびしく、四方の山の櫻今を盛りと見ゆれども、家内にながむる人もなく、綾女は日に増し身体衰へ、頼み少なくなるといへども、唱名日課は懈らず、日数を送りける程に、掃部、助次郎心をいため、神仏への祈願、妙薬等種々に手を尽すといへども、定業のがるる事のならざるにや、宝徳二年庚午の三月、歳三十八才にて終に身まかりけるとなり。

 婦人にはめづらしき賢女なりしが、四十路をも待たず世を去りければ、掃部は言ふに及ばず、家内の男女なげきかなしみ、類門隣家に至るまで惜しまぬ者はなかりしとぞ。 <上巻終わり・中巻へ>
綾女、病死の事