されば沢右衛門は妹を呼び出さんと急ぎ上京の用意をなし、心にかかることありてその日明るを待たずして、夜半の頃に在所を発足す。
さてまた、池田勝之助は紛失せし掃部重代の太刀刀を尋ね出さんが為、所々方々、馳せ回り、武家町家、差別なく、種々の手立てを回し尋ねけれども、之ぞと怪しむべき事なければ、すべき様なく月日を送り、うつうつ思ふ様、我かくまで之を尽くし吟味すといへども、一向手ががりなし。
此の上は明神の力をからずんば叶ふまじと、氏神・諏訪明神へ毎夜丑の刻と思ふ頃、身を清めて参詣し、之を祈る事七夜に及びけれども何の告もなし。
さては我が念力明神に通ぜざるにや。
是非もなき事かなと思ひ乍ら、神前を拝したち帰らんとせしに、社の側より大きなる狼一匹現はれ出でて、東の方へ向かひ三声啼き勝之助を見る。
眼の光り輝くこと、星の如くなり。
勝之助少しも動ぜず心の中に思ふやう、今に東南の方に向かひ声を揚げて啼きしは仔細あらんと思ひながら、彼の方を見るに、狼は掻き消す如く失せたりける。
然れ共、之を語りし事もなく、神拝をなし下向せり。
勝之助は智謀賢く、失物の儀に付ても心中、沢右衛門を疑ふ心ありといへども、掃部始め、父・助次郎、沢右衛門を又となき者のやうに思ひ、入魂せしゆえ、この度の事、勝之助は夢にも知らず、なおざりに捨て置きしは残念なりし次第なり。
沢右衛門は急ぐに程なく丹州亀山に着き、或る旅籠屋へ宿をとる。
一人なれども見苦しからぬ身振りに帯刀せし故、宿も粗略には思はざるにや、裏なる別座敷に案内す。沢右衛門、足袋装束等片付け休息せり。
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