さて威妙院は天国の守刀を押し戴き「我等修験者にて捨身とりうの行をなすべき身の、名作なればとて懐剣等望み申す事、如何はしく思召されんが、是には謂(いわれ)ある事なり聞き給へ。

 最早二十ヶ年も以前の事なるが、石州津和野と申す所に賢成坊と申して積徳の山伏あり。或時河内の国、金剛仙の絶頂なる魔所に勤行致しゝが、夜半と覚ぼしき頃、木の葉天狗ども近所なる大木の上に飛び来りて言ふやう、「此の麓に心悪しき侍二人道に迷ひ木陰に休息せり。彼等を悩まして慰まん」と言ふ。

 「如何にも」と言ふ声して鳶の鳴くが如き声あたりに聞こえしが、俄に天地動揺し物騒がしき事百千の雷鳴り轟くが如く気も魂も消ゆるばかりなり。

 彼の山伏は願行にて斯かる所へ座する程の積徳なれば少しも動せず、いら高の数珠を爪繰り観念して居りたりしが、虚空を見れば数万の天狗群がり集る事、風に木の葉の散乱するに異らず。

 皆々木上に止まり暫らくあって司長と覚しき天狗「汝等今宵の慰み止めよ」と言ふ。
小天狗共「何とて止め候べしや」と問ふ。
「汝よく聞け。二人の侍の外に一人の伴あるべし。之こそ伯州の安綱よ、此の者一所になる上は我等が魔力忽ちにくじけ飛行の術を失ふべし。斯かる危き所へは行く事無用たるべし」と言ふ。

 小天狗共、「さては残念な事哉。両人が帯せし太刀は我等一足にて蹴落すべし。安綱来るこそ恐ろしけれ、此の上は仕方なし」と言ふかと思へしが、又先の如く大山の砕ける如く動揺し、数多くの天狗十方へ飛去りける。

 彼の山伏は夜の明くるを待ちかね、麓の方へ歩み下りて見るに、大樹の茂りたる蔭に若き侍二人手に手を取り組み色青醒めて竦み居りたり。

 賢成坊声を掛け「方々は何方の人なれば斯かる深山の魔所へ来り給ひしぞ。」
二人の侍言葉を揃へ「我等は当国の領主に仕へる者なるが、昨日野鳥を射んと半弓を持ちこの麓に来りしが、多くの山鳥集まり居る故、射取らんとするに矢当らず、何様得ずんばあらじと、追々奥深く狩り登りしが山鳥を得る事数十羽、之を背にかけ余りの面白さに猶も射取らんと斯かる所まで来りしが、俄に日暮れ候故、後へ帰らんとするに道を失ひ如何せんと此の木の本に休息して、射取りたる小鳥を見れば、鳥には非ずして皆木の葉なり。

 さては野狐の類に妖かされしならんと思ひ、斯く山深く入込みしを後悔して居たりしが、是なる家来は少し後れて後にあり、心もとなく声を揚げて呼びしに、遥か麓に答へる声せし故、早く来たれと声々に呼びし処、俄に山動揺し鳴り響くこと雷の落ちるが如く、大地震動すること盆を揺るに異らず、如何せんと思いしに、両人とも身体竦んで動かざれば、命も消えんばかりに思はれし処に、後れたる一人の家来漸く尋ね参りし故少し人心地づき「今の騒動を聞きしや」と問へば、彼は又「さして騒がしき事は聞き申さず、先刻少し風烈しく吹きたるやうに覚へしが、恐るゝ程の事は候はず、早く麓へ下り給へ」と我等二人が山深く登りしを諌め何気なき気色なり。

 彼、我等に後る事僅か一町ばかりなりしが、彼は何事も無きに我等両人は今に胸動じ、五体痺れ恐ろしきは妖怪の悩ますならん、助け給へ」と言ふ。


 
山伏は心の内にて可笑しく思ひ乍ら「一人後れて来しと言はるるは御両人の家来なるべきか」
「如何にも我等が供に連れたる召使なり」
「此の人よき太刀を帯せるや」
「いや見苦しき供脇差なり」。

 賢成坊是を見るに錆かへったる曲刀なり。「此の外に何にても刃物の類を持たれしか」。
「如何様我が先祖より伝はる守刀とて、八寸ばかりの懐剣を所持せり。是は我先祖侍なりし時より大切にして身を放す事なかりしと言伝へし故、我等他行せる時、又は斯く山中に入る時は守の為懐中せり」と言ふ。
「一見せん」と言へば、彼の男首にかけたる紐をはずし差出すを見れば、古びたる白鞘の短刀なり。

 山伏手にとりて見れば鞘の上に「伯耆国安綱作」と書付あり。抜きて見れば氷の如くなる短刀なれば、さては疑ふ所もなく、夕べ天狗の恐れたるは之なりと、委細の訳は言はずして返しけると、彼の山伏の弟子、我に語りし事あり。
 安綱すら剣徳の高き事斯くの如し。天国は又抜群の名作なれば、我之を所持せば假令如何なる深山幽谷の魔所へ入るとも恐れなしと思ひ、斯く官位延引に因て申受けしなり」と語りける。

 沢右衛門は威妙院の世話にて金子を得、心中大いに悦び、亭主を呼び酒肴等取寄せ種々饗応(もてなし)ければ、威妙院
「我計らずも不思議の縁に依って斯く馳走に預り、其上名剣を得し事此の上の悦びなし。貴客の用事も片付きたれば、我は一先づ国元へ帰り、重ねて上京すべし。貴君にも御一人の事なれば、斯く金子等所持せらる事、今の時節は甚だ危ふし。御用心こそ肝要なり。

 早く御手寄りの方より供人を頼み、帰国あって御主人様へ忠義を尽くし給へ。我は明朝都を発足せん。少々用事もあれば是より外へ参り候べし。

 此の後御縁もあらば重ねて御目にかゝる事も候はん。随分御健勝に御勤めなさるべし」と言ふ。
沢右衛門も、「此の度貴客の御世話に預からずんば、即刻に首尾よき商は致すまじきに、偏に御懇志の御蔭故、拙者が幸主人の御為御恩忘れ申さず」と、互ひに暇乞いして別れける。

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名剣の徳にて魔の障りを払ふ事