されば田垣左衛門信豊は主従三人、宿南常陸之助を頼み、城山の麓なる岡に居家をつくろひ蟄居せしが、主従とも勝れし勇士なれば、城主宿南殿より召抱へたき由、たびたび申しつけらるといへども、左衛門親子、義かたき侍にて、これまで新田に属し官軍たりし身の、今、落ちぶれたりとも、なんぞ北朝に属せし同姓の徒に仕へん。
たとへ、民家に降るとも、二君に仕へること、義士のせざる所なりとて、勤仕せざる故、そのまま打ち捨ておきたりける。
家臣・助左衛門は生得さかしき者にて、ひそかに領主へ願ひ、屯田の工夫をなし、農人どもに多く田畑を開かせけるが、追々、徳分、出来
(しゅつらい)す。左衛門親子、これを得て心安く光陰を送る。
信豊は貞治五年の夏、卒去せり。寿、六十三歳。子息・杢之助は助左衛門とともに民家となり、田畑を発起し、年々、数十石の徳米を得、父の名を呼び田垣右衛門信俊といふ。
池田助左衛門は当所、居住の内、妻女を迎へ、男子二人出生す。嫡子を助次郎といひ、二男を彦三郎といふ。弟・彦三郎は生得、武道を好み、力量勝れし者にて、宿南殿に勤仕せり。右衛門は宿南の家臣・片山某が娘を娶り、男子一人を出生したが、初老にも満たずして夫婦共相果てたり。
その子を田垣掃部といふ。若年にして父母におくれしを、助左衛門親子、これをいたはり養育せしが、民家に降るといへども内証豊饒に渡世を送る。その後、助左衛門相果て、子息助次郎、父に変らず忠節の者にて、別にわが居宅をも造らず、掃部家の側に、僅かなる居所をしつらへ、妻子をおき、その身は掃部の宅に居て、田畑の徳用を取り納め、少しも私しせず、手先となって日を送りける。
また、掃部の屋敷に、年経しの欅の大樹あり。高く立ち登りし事、数丈の神木なりと言ひ伝へたり。この樹の元に居住せしゆえこそ、田垣の文字を、高木と替えしとかや。
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