ある時、掃部親子とも他行の事あり。沢右衛門来り内用ありとて、牧女を帳台へ伴ひ行き、手を取りて引き寄せ、耳に口をつけ、何やらん囁きしを、計らずも助次郎チラと見けるが、何とも合点ゆかず、兄妹の事なれば異議かたかるべきに、何とやらん、奥方の手を握りなどせられしは、いぶかしき次第なり。
その上、沢右衛門と奥方の目遣ひ一方ならず、されども兄妹に相違なし。何はともあれ今日のふり心得ずと思ひしがさあらぬ体してもてなしける。
沢右衛門帰りて後、助次郎牧女へ向かひ、
「御令兄、沢右衛門様度々御出の事にて、奥深く御話などし給ふも、御兄妹の事なれば苦しからずといえども、たとへ、兄妹にもせよ、男女の差別あれば、人目を忍びての御話などはよろしからず」と言ふ。
牧女、さては沢右衛門と内証の密事助次郎に悟られしならんと、胸に釘打つ如くこたへしが、曲者なればさあらぬ体に打笑み、
「なるほど、申さるる通り、我が現在の兄といえども男子の事なり。訳を知らぬ者は不審にも思ひつらん。その上、兄の事を人様に言ふも如何なれども、悪しき癖のある人にて、何事に依らずその身喜ばしき事あれば、妹の前をも恥ぢず戯るる様の振りをする人なり。
我もいやに思へども、兄の事ゆえ、はぢしめもならず。よくこそ気を付け給ひしぞ。この上は心得申すべし」
と、誠らしく言ひなせば、律義一筋の助次郎なれば、よもやと思ひ、
「その御心得こそ宜しく候」と言ふ。
その後、また、沢右衛門来りしに、折節、助次郎居ざりければ、牧女、沢右衛門を一間に招き、
「さてもつまらぬ事こそ候へ。先日御身と二人物語し、我が手を握り給ひしを、助次郎は如何にして見たるにや、我にか様か様の事を申せしなり。御身と日頃の密事、これ迄知る人なかりしに、万一現はれなば一大事、互に心得用心せずばなるまじ」と言ふ。
奸侫不敵の沢右衛門、なるほど胸にこたえけるにや眉をしはめ、
「さて大事を悟られしものかな。此度、万一掃部親子に悟られなば、我が大望の妨げなり。
これは、よくよく思案せずんばなるまじ。暫らく待給へ。我工夫を廻らし事を計るまじ。しかし急にはなりがたし。
我らも当分、参るまじ。追っ付掃部親子も帰るべければ、万端気を付け候へ。」
と直ぐに立帰りける。
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