沢右衛門は謀計半ばまで成就するといへども、掃部親子に心を兼ね、思う侭にも振舞はれず。

 ある時掃部に願ひけるは、「我独身の事なれば、かかる時節に世話申し、御恩をも報じ奉り度く存ずれども、住家隔たりて心に任せず、深谷(みたに)の里は余り山奥なれば、当所に僅かなる部屋にてもしつらひ我住家とせば御用を勤むるに勝手よく、又、我渡世も致しよからんと存ずれば、御近所に住家を建て度きよしを語る。

 掃部は彼等が心底の悪事を知らず、「成る程独身の其許なれば、当家にありて苦しからずといへども、別に我住家なければ不勝手のこともあるべし。当所に引き取り然るべし」とて、俄に深谷の居宅を宿南へ移し、掃部の用を勤めける。

 牧女は沢右衛門と心を合せて助次郎を殺し、これより掃部親子をも失はんと思へども、助次郎が毒に当りし様子を子息勝五郎が悟りしを気味悪しく思ひ、最早術(てだて)はなしがたし、万一我仕業(しわざ)と思はれては一大事と思案を廻らしけるが、われ都にありし時、ある人を呪咀し、さる神社へ祷り、森の木に釘を打つ事三十三本なりしが、いつとなくこの人煩ひつき、一年をも待たずして身まかりしことあり。

 さればこの術を以て左衛門を殺しなば掃部も自然と煩はるべし。その時薬の中へ少しづつ毒を加へ呑ませなば、人にも悟られず思ふままに願望成就すべし。

 これ屈強の思案と思ひ、ひそかに沢右衛門にこの旨を語りければ、沢右衛門大きに悦び、これに過ぎたる術なしと、早速釘三十三本調へ来り牧女に渡す。

 牧女心得、毎夜丑の刻とおぼしき頃、諏訪明神の森近ければ人知れず参詣し「南無諏訪大明神、わが立願をあわれみて当年二十二歳の男なる継子、左衛門が一命をとりてたび給へ」と念願し、後なる神木に向ひ、左衛門が胸先のあたりとおぼしき所へ一心不乱に釘を打つ事、七夜の内に三十三本。

 たとへ百歳の寿命ありとも、我念力やはか通さで置くべきかと、毒蛇の如き有様にて前に立ちたるは、おそろしかりし悪女なり。


 (この時、狼、明神の神力をかりて牧女をとり、化して牧女と変じ家へ帰り左衛門の病気を救ふ)

 左衛門これまで侫悪の牧女が内心の謀計を知らず、偽りて愛するを真実と思ひ、実母よりも大切に孝心を尽す心の内ぞいたはしけれ。
       
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沢右衛門、居宅を宿南へ移す事  
                 付、両人心を合せ左衛門を呪咀する事