かくてその年も暮れ、明くれば長禄元年二月始めより左衛門、何となく病気付きけるが、日数のたつに随ひ次第に重もりければ、掃部はいふに及ばず、継母ふかくこれをかなしみ、様々に療治に手を尽すといへども、薬力のしるしも見えず、ただ鬱々として胸を傷め、夜に入れば苦痛甚だしかりければ、牧女顔色を変へて大きにこれをかなしみ、夜といへども帯をも解かず、昼は片時も病人の枕元をはなれず、懇ろに介抱せる事、なかなかなみの人の及ぶ所にあらず、人々奇特の思ひをなしける。

 掃部は種々の妙薬など調へ、又神仏に祈り誓ひをかけ、頼み少なく見えにける。
ある時、下男あわただしく掃部の前に手をつき、
「さても今朝、沢右衛門様来たり給はず、家の戸もあけられざるゆえ、参りて見れば、庭に倒れ居らるる故、よくよく見るに五体氷の如く息絶えて候」といふ。

 掃部驚き、
「それはいかなる事ぞ。夕べまで何の事もなかりしに」と言ひつつ牧女にこの旨をかたりければ、牧女驚ける体にて、
「左衛門殿大病と言ひ、ひとかたならぬ事哉、早く行きて様子を御覧下さるべし」と言ふ。

 掃部、下男両人を召しつけ馳せ行きて見れば、いかにも下男が告げしに違わず、身体こはばりて木の如くなれば、もはや針薬も叶ふまじと死骸をよくよく改むるにさして疵もなく、のど笛あたり少しあやしき跡あれども死する程の疵にもあらず。

 いぶかしみながら下男近所の者を呼び集めさせ、死骸を座敷へかきあげ夜具にてよく包み置き私宅へ帰り、右の次第を語りける。

 牧女も兄の事なれば行きて見ずんばなるまじと言ひつつさして動ずる気色なく、左衛門殿へよくよく気を付け給はるべしと伊言ひ置き、下女を召し連れ、静々行きて五体をとくと見廻はし、これは思ひもよらぬ有様なりと泪を浮かべ、集り居たる人々に向ひ、
「皆々御世話頼み参らせ候ぞや。掃部殿去秋は手代助次郎を失ひ、左衛門は大病、その上、我兄、沢右衛門殿までかくなりしも不仕合せの因縁廻り来りしならん。
かかる憂目を見る事よ」
と、顔に袖をあて、声もたてずさめざめと歎かる。

 人々これを見て、流石、掃部の奥方なり、去秋助次郎死去の節は、人の見る目も恥ぢず声をあげ歎かれしが、一人の兄の死去には人目を恥ぢて愁傷の色を見せず歎かるる有様、心の内押しはかりいたはしくぞ思ひける。

 牧女、泪をおさへ、
「我、ここに居りたりともせんなき事、病人こそ大切なり。暫らくも我をはなし給はねば、早々帰り申すべし。ここは何れもよき様に頼み参らすると言ひつつ下女引き連れ帰りける。

 左衛門は牧女の帰らるるを待ちかね苦しげなる気色にて、
「母上、沢右衛門はいかなる事ぞ。我等かく大病にて快気に趣かず、助次郎と言ひ沢右衛門殿まで相果てられなば、金吾が未だ幼年なり。

 父上の御事、この上如何かと心もとなく、兎も角も力を落し給はずして父の心をもなぐさめ給へ。この段、頼み参らす、と泪を流しければ、牧女、左衛門の側により、

「よく聞き給へや左衛門。
当家に於て第一に大切なるは御身なり。我が為には外に力とする者なし。金吾は未だ幼年なり。掃部殿とても中老に近き御身なれば、行末如何と心もとなし。

 御身こそ杖柱とも頼み、その上先妻綾女様を忘れ難く、形見とては御身ばかりなり。
御身に万一の事ありては、人になき事までの名を立てられんもはかり難し。
我等親子、身を捨て継母の潔白を顕はさんとまでも思ひ暮らし候なり。

 されば御身一人の命にあらず。
母と金吾、御身にかかる、ここを察して気を張り神や仏の御加護を蒙り、早々本復し給ひて我等が心を休め給へ」と、泪を浮かべ、気を励ましける。

 左衛門、牧女のことばを聞き、
「我等発病の節より、万につけて心をつけ給ひ、近頃病気重もるについては夜も帯をとき給はず、暫しの間もまどろみ給はねば、数日の御介抱に御身の疲れにや、やつれさせ給ふ顔色見参らするにつけても、何卒、一度全快し、この大恩を報じんと心には思へども、我が身の病苦に責められ、御心を休める様にも成らざるは、よくよくの業病と思ひ、我が身ながらあさまし候」と、苦しげにぞ悔みける。

 牧女泪を浮かべ、
「先妻綾女様は進美山の観音に深く心願をかけ給ひて二人の男子を設け給ふと、助次郎の妻語りしなり。

 伝へ聞く観音菩薩は、誠に勝れて大慈大悲の御威力深く、三十三身に御身を分け、末世衆生の願をかなへ、如何なる災難ありとても観音の御威力に叶はざるはなしと聞く。

 されば普門品の中にも≪咒咀諸毒薬所欲害身者念彼観音力≫ともあり。
又、≪生老病死苦以漸悉令滅≫とあるをや。

 御身の病気重しといへども、我一念を以て観音菩薩に願をかけん。
兄の喪中なれば神への祈願は恐れあり。
進美山の観音こそ御身の為には因縁あれば、共に信心し給へや。

我等親子は代りに立ち一命を果たすとも助け得ではおくまじと、髪を洗ひ、身を清め、左衛門の机の上に観音の画像を祭り、香花を供へ、一心不乱に祈る事七日七夜、少しもまどろむ気色なく、さしも美はしき顔も相形変りて見えければ、看病の者ども、身の毛よだちて覚えける。

 この奇特にや、左衛門の苦悩忽ちさめ、削るが如く本復せり。
掃部夫婦の悦び譬ふるにものなし。
不思議なりしは、頓死せし沢右衛門、住家を片付けしに、着類を入れし鋏箱一つあり。よくよく改め見るに切金二百貫分、所持せり。

 日頃困窮の沢右衛門なれば、皆不審に思ひける。されども、掃部の大太刀、小刀を盗みとり調達せしものと心付く者なく、大太刀は他国の盗賊の仕業の様に風聞して過ぎ行きける。
    
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沢右衛門病気の節より牧女悪心替りて実意に変ずる事 
            付、沢右衛門変死の事