池田勝五郎(勝之助)は数年、城主宿南修理太夫の出頭大嶋兵庫の方に有りて勤めけるが、元来武道を好みし故、彼の弟子となり、兵法軍学に秀でし者なり。
父助次郎卒去し、其後沢右衛門も果てたれば、掃部勝五郎へ帰るべき由度々言ひ遣はしけれども、折節病気にて有りし故、主人と言ふ大恩師範たる事なれば見捨てて帰る事なり難く、日を送る内兵庫も相果てられしかば、掃部の内へ帰り、父助次郎が如く勤めける。
彼が弟に竹市と言ふ者あり。是も成長し名を新七と言へり。
老母一人の娘を連れたり。是は生まれつきさし足にて歩行人並みならず、名は国女と言ふ。
後には母、新七、国女三人とも沢右衛門が宅へ移りける。新七、助次郎が後相続の者なれば、掃部より田畑を貰ひ、農業を営み心安く渡世す。
ここに怪しき事あり。
ある時、掃部、牧女を伴ひ真禅法印の庵へ行き、仏法の要文を聴聞し帰りの節、法印に向ひ、わが如き浅ましき身は、何卒戒を授けさせ給へと願いける。
掃部は先に法印の前を退出し外にありしが、牧女後に残りし故、立ち帰りて見れば、法印牧女に向ひ、何やら口の中に秘文を唱へ給ひて後、牧女の顔に数珠をあて両眼を閉じて『南無狼形善発菩提心巧徳円満浄土往生古諸仏愛愍護念』と唱へ、十念を授け給ふ。
掃部は聞きけれども其心を得ざれば何心なく牧女と一所に帰りける。
真禅法印は寿八十余歳、行道は往古の高野山明遍僧都の如く、一心専念の行者なり。
ある時、随心の人庵室へ参詣せしに、、折節仏前へ看経して居給ひしが、後をかへりみて「よくこそ来り候ぞ。われ日頃の念願今日成就す。寺中へ此旨伝えてたび候へ。」
と、又仏の方へ向ひ声高に念仏せる事百遍ばかりにして端座合掌し、唱名の声と共に息絶え給ふ。
彼の人驚きあたりを見れば紫雲庵の外に満々たる事煙の如く、妙香天地に薫ず。
感応肝に徹しければ急ぎ光明寺へ馳せ行き此旨を伝へ、又後へ帰り法印の後へ礼拝し信仰の泪を流しける。
直に光明寺へ尊骸を送りける。
奇特なりし往生なり。
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