山伏掃部の家に尋ねきく事   附、牧女狼の変妖顕はるる事
さても威妙院つくづく思ひけるは、かかる稀代の不思議こそなけれ。
夕べ狼数多集まりて我を捕らんとせしに、剣の威徳にや、喰ひつくこと叶はず、後に来りし一匹の狼は其有様凄まじく、働く事飛鳥の如く、我を喰ひ殺さん事安かるべきに、我自体に目をかけず、眉間を一刀切られながら壊剣を奪ひ、かき消す如く消え失せたり。

余の狼も是を見て四方に逃げ去り失せし事、何とも合点ゆかず、是亦不思議の事なり。

人の言ふを聞けば掃部の家はかの西の方に当れり。狼西をさして去り、連れ来りし怪狼守り刀を咥へ取って失せしは、かたがた以って訝しき事なり。

我等も元来縁の行者の後を追ひ、捨身行をなすが故、紀州大峯に数度の歩みを運び、出羽の白山、越中の立山、駿河の富士山、其の他諸国の霊山に登り、深山幽谷の魔所に入る事度々なれども、かく怪しき目に合はず、かかる不思議を見顕さざるは行道の行き届かぬに似たり。

何様掃部と言ふ人の方へ尋ね行き様子を聞きたださん。
別儀なければ、其侭格別遠方にあらざれば、さして手間どる程の事もなしと、それより宿南へ渡り、当所に掃部と言ふ人ありやと訊きしに、里人居宅を教へければ、山伏尋ね行き、

「拙者は伯州の修験威妙院と申す者なり。卒爾ながら、寸時お尋ね申したき事ありてお伺ひ申せし。」由を言ふ。

掃部立ち出で対面せしに、歳五十ばかりに見ゆる人体よき山伏なり。
一応の挨拶をなし、
「さて、夜前御家内に何か変りたる事は御座なく候や」

「何も変わりたる事なし」

「もし家に烈しき犬狼の類など養ひ給はずや」

掃部「左様の事なし」と

「御家内御人数は幾人ぞ」

「我等夫婦に二人の子、召使五人」

「然らば御人数九人の内に、面体に疵など付かれし方はなきか」

掃部、不思議に思ひ、此山伏は異な事を尋ねらるるもの哉と思ひ、さし俯き、
「さしたる事はなく候へども、夕べ愚妻便所へ行きしが、過って転び額を打ち痛みつよしとて今朝未だ起き候はず」

山伏、俯き思案の体なり。
「その怪我につき仔細ありや」

「いや、仔細と申すにては候はねども、御内室の御疵もし刃物の類にて突かれ給ふ疵にては候はずや。よくよく御覧あるべし」と言ふ。
子息左衛門側に居りたりしが、何様合点ゆかぬ事を言ふ山伏かなと思ひ、急ぎ母の枕元に手を付き

「御疵の痛みは如何候や」
と尋ねれば、牧女、さしたる事にてもなしとなり。

「さて、不思議なる事を申して来る者候。伯州の修験なりと申して先刻来り、母上の御怪我の事を申すに付き、何とも合点ゆかず、如何なる曲者にてかかる事を言ふやらん、追ひ出さんと思へども、母上の御事心元なく御尋ね申すなり。」

牧女これを聞きて、
「その山伏全く曲者にあらず。何卒奥へ招き、休息致し候様はからひ給へ。若し辞退せば母が内々頼みたき事ありと申し候へ。返す返すも如才のはからひし給ふな。随分敬って座敷へ通し候へ」

左衛門は何とも心得ぬ事を申さるる事やと思ひながら勝手へ出づる。掃部も牧女の枕元に座して疵の痛みを問へば、

「さしたる事にても候はず、それに付き、山伏の来る由、唯今左衛門が申されたり。
是には深き様子のある事なれば、かの山伏をとめ置き下さるべし。

委細はやがて物語り候はん。必ず、必ず山伏へ無礼なき様に御はからひあるべし」となり。

此時、娘民女五才にて母の懐へ居りたりしを、下女に言ひつけ、「今日内に取り込み事あれば外へ連れて出で候へ、用事あらば呼ぶべし。それまで内へ帰り候な」となり。

掃部いよいよ不思議に思ひながら、勝手へ出で威妙院に向ひ、
「初めての御入りなれば近頃卒爾に存じ候へども、暫く私宅にて御休息下さるべき由、愚妻申候也。
是へ御通りあるべし」となり。

威妙院気味悪く思ひながら、さては仔細あらんと察し、
「然らば御免候へ」と奥の一間へ通りける。

牧女、左衛門を呼び、懐より短刀を出し、
「是、見候へ。
是こそ当家重代の守り刀天国(あまくに)の作なるべし。
是につき深き仔細のある事なり。先ず、是を山伏に渡し、母がか様に申すと伝へ候へ。

此の刀の儀に付き物語の候ゆえ、御留め申せしなり。しかし御身の害になる事にあらず。

委細は後にて聞き給ふべし。心安く御休息候ひて御疲れを補ひ給へと申さるべし」

左衛門此旨を通じければ、威妙院さてこそと思ひながら短刀を受け取り見れば、夕べ狼に取られし守り刀なりければ、様子を語らんと思へども、もしいかなる障りあらんもはかり難しと、委細承知仕ると、さあらぬ体にて懐中し、然らば少しの間休息御免下さるべし、と言ひて休みしは、天晴れ積徳の行者と見えし。

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