牧女、掃部親子へ物語の事   附、諏訪明神霊験の事
時に牧女は寝所を起き出で、下女に湯をとらせ顔をよくよく洗ひ、白絹にて額を隠し、髪を繕い衣裳を着替へ、掃部を招きて、

「如何に方々、我を如何なる者と思ひ給ふぞ、此所に年経たる狼の変化なり。
かく申せば恐ろしと思し召さるるかなれども、このたび顕はるる上はくわしく物語り申すべし。

さても十七年以前、我二つの子を生みしが、一月も過ぎざるに此子狂い廻り、過ちて鹿の落し穴に落ち入りぬ。

我は穴ある事を知りたれども、二つの子故に心乱れ、助けん為に飛び入りしが、以ての外穴深く内狭くして身体を廻らす事なり難く、上には草木生い繁り、蓋を覆ひたる如くにて、子を助けん事は差置き、身を遁れん事なり難く日を送る内、食に渇し身体疲れ何ともなすべき様なく、穴の底にて飢え死なんと心定め居りたりしに、折節上に人音しける故、とても死なんずる命なれば人間の手に掛りて死なんものと、声をあげて啼きしに、此家の奥方慈悲の御心深く、我等親子の命を助け得さするぞとのたまひし御言葉、身に沁み渡りて有難く、死して再び生き帰りたる思ひをなし、如何にして救い給はるやらんと存ぜしに、御家来に言ひ付け、穴の口を切り開き、堀りさげ給はりし故、易々と二つの子を助け、我身も助かりしなり。

畜生なれども、慈悲のことばは耳に分かり、此大恩は千万生を経るとても報じ難しと思へども、畜生なれば言葉を通ずる事叶はずして月日を送る。

当家の作場を鹿猿の荒らさぬ様に守りしも、露ばかりにても恩を報ぜん為なり。

其後、綾女様御果てなされし時、沢右衛門と言ふ大悪人当家重代の太刀刀を盗み取り、我妹を後妻になさんと謀計を廻らし都へ上りしが、妹は国に帰らず人の見知り給はぬ事を幸い、外の女を妹牧女と偽りて連れ帰り、かの奸女と密通し男子を生む。

是、先達て相果てし金吾が事なり。
此子、沢右衛門が種なるを知り、当家を継がせんと悪念を起こし、深き巧みを廻らしつ、助治郎を毒害し、又、方々をも殺さんと思ひしが、助治郎が如く毒害せば人々に悟られん事を恐れ、人知れず左衛門殿を呪咀し、諏訪明神の神木に七夜の内に祈り釘を打つ事三十三本、われ彼を喰い殺し、綾女様への厚恩を報じ、毎夜付き添ひて窺えども、悪人ながら牧女は尊き守りを懐中せし故、側へ寄る事なり難く、とやせんと窺ふ所、牧女釘を打ち終り神拝をなさんとせしに、霊神の御罰にや俄かに宮中鳴動し、神風しきりに吹き社壇の扉響くぞと聞こえしが、神前に立ちたる牧女一声叫んで倒れ臥す。

其時、飛びかかって喰い殺し遁げ去らんとせし所に諏訪明神影の如くに顕はれ給ふ。

御姿は頭に霊蛇の冠を載き、身に金色の御衣を召し、

「汝、畜生なりといえども、報恩を思ふ一念、人間に勝りし念力神に通ずる故、我また和光の威徳を顕はし、汝が清浄の義心を憐み、神霊垂釈の奇特を授け思ひの侭に恩を報じ得さすべし。先達て掃部が忠臣、勝之助と言ふ者、高木重代の太刀刀、紛失せしを歎き、諸々方々を尋ねけれども、盗み取りたる者遠方へ持参せし故力及ばず、当社に願をかけ深夜に歩みを運ぶ事七夜に満てり。

しかれども、紛失せし頃より数日経たる故力及ばず、汝に託して太刀刀の行衛を示すといえども是を悟らず、日を送るところに掃部が後妻、悪念を起こし不義の我子を代りに立てん為、継子左衛門を殺さんと、当社に祷りをかけ、神木に釘を打つ事三十三本、神は非礼を受けずといえども奸女が悪念強ければ、左衛門が寿命半年を過ぐべからず、汝烈しき猛獣なりといえども、神通化現の術をなす事能はず、我汝が義念に感じて神変不思議の術を授けん」

と、一つの御封を我口の中へ投げ入れ給ふ。

有難くも尊く、慎んで呑み込しが、忽ち五体に沁み一心乱れて夢の如く思ひしが、重ねて告げ給ひけるは、

「掃部二品の宝の内、太刀は名作といえども中古の物なればその奇特薄し、守り刀は短刀といえども、表米親王より授かりし宝剱なれば最も大切なり。

取りかへさずんば掃部が孫世に出る事なり難し。
太刀は都三条にあり、刀は伯州汗入郡、威妙院と言ふ山伏の手にあり、時節を以って取りかへし掃部に渡せよ。
汝、神通変妖の術をなして恩を報じなば、其徳により後世は畜生の果を遁れ、遂には仏果菩提に至るべし」

と、神託を蒙りて、忽ち神影煙の如く消え失せ給ふと見えしが、我身の軽き事鳥の如く、又我れ男子の姿に現ぜんと思へば忽ち男子に変化し、女にならんと思へば忽ち女の形に現ず。

それ故にこそ悪人牧女が死骸を同類の狼に施し、変妖してかれが衣裳を身につけて斯く美はしき牧女となって来りしを、沢右衛門それとは知らず我に戯れ、其の上沢右衛門の命を縮めんとせし故、或夜喰ひ殺し、牧女が打ちたる祈釘を弟金吾に封じかへて左衛門の命を助け、種々に心を尽くしつつ今日まで月日を送りしなり。

此物語を山伏に話して守り刀を受取り給へ。

山伏の帰るまで我も当家へ止まり居ん。

顕はれし上は暫くも此家に止まり難し。とくとく」と言ひ捨て、一間の内へ入るとぞ見えしが、姿は消えて見えずなりける。

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