掃部親子は此物語を聞き、思ひもよらぬ珍事なれば、余りの不思議に何と言ひ出すことばもなく、親子顔を見合わせつつあきれ果てて居たりける。
掃部、左衛門に向ひ、
「是につき思ひ当る事あり。我先年牧女と一所に綾女が墓所へ参り、其帰り真禅法印の庵に尋ね行き、仏法の要文を聞きしに、其時、我は先に座を立ち帰らんとす。
牧女は十念を授からんと言ひて少し後れし故、後へ立ち戻り様子を見れば、法印数珠を牧女が額に押し当て両眼を閉じて
<狼形善女発菩提心>と唱へ給ひしを、我何心も気付かず、かかる仏語もあるやと思ひ、打ちつれて帰りしが、今思ひ合はすれば、大徳の眼力には狼の姿に見えしならん。
牧女が貞節の忠義に依て、紛失せし重代の守り刀再び手に入る事祝悦是に過ぎず。
牧女は何所に居るぞ」
と、呼びけれども見えず。左衛門は座を立ち、
「如何にして隠れ給ふぞ、訳はともあれわが為には大恩を受けし命の親の母上なり。情なし」
とて、尋ねけれども、姿見えざれば、此所彼所を見廻りて時を移すも理なり。
掃部声をあげ
「たとへいかなる訳にもせよ、か程親子が尋ぬるに如何なればまみえ候はぬぞ」と言ひければ、其時空に声ありて、
「何とてか様に迷ひ給ふぞ、顕はれぬ先はともあれ、斯く顕はれぬれば、早々我ことばに任せ守り刀を取りかへされよ。
御手に入りしを見届けし上、山伏帰らば其後にて暫し姿を顕はすべし。
先ずそれまでは形顕はさん事なり難し。急ぎ給へや方々」
と言ふ、声は聞ゆれども影も形も見えばこそ、夢かと思ふばかりなり。
さらば言葉に任せんと山伏の居間に行きしが、威妙院は夜前の疲れにくたびれたれども、様子は如何と訝しくまどろみもせず座したりける。
親子は対面して始終の様子を逐一語りければ、威妙院はたと手を打ち、
「さては稀代の不思議かな。此議に付いて我が方にも思ひ当る物語の候、聞き給へ。
われ十二年前、官位の為に上京せしが、亀山の宿にて当国の侍なりとて宗近の太刀と天国の短刀を所持せしをはからずも拝見し、剣徳の勝れし謂など語りければ、彼の侍我を頼み世話致し呉れ候へと、ひたすら頼み候故、かかる事とは露知らず、太刀は三条の商人へ三百三十貫にて売払はせ、刀は五十貫にて拙者申受け候なり。
されば其後此守り刀を懐中し、日本六十余州いかなる霊山の魔所といえども我が登らざる霊地なし。
されども名刀の奇特にや、積徳の行者も恐るる魔所にても、物のしょうげを受けし事なし。
然るに此度、丹後河守大神宮へ参詣せんと此所を通りしに、思ひもよらぬ夜前の狼難にて命危く思ひし故、わが行力も剣の威徳もすたれしならんと思ひしに、さてはかかる訳ありて守り刀を奪れし不思議の思ひ晴れたるなり。
昔より、霊蛇旧狐の変化して人間に通ぜし事、和漢の文書に見聞せしが、狼の変妖未だ例を聞かず。
是、畜類といえども、報恩の一念を起こし、霊神の通力を授り当家へ忠義を尽せし者なり。
誠に片々幸福なり。
か程奇特の剣と言ひ、当家重代の宝なるを拙者所持して何かせん。御譲り申さん、受取り給へ」
と、懐より取り出し掃部の前に差出しける。
左衛門側にありて、
「貴客の御懇志甚だ以て満足せり。併し、五十貫にて求められし刀なれば此価を渡し、其上請取り候はん」
威妙院、「否とよ、かかる稀代の不思議と言ひ、又彼の者当家より盗み取りたる刀なれば価を受くるの道理なし。
其上、我此名刀の徳により、魔所も霊地も残りなく順拝し終りし事なれば、此上所持は無用なり。
この事、報恩貞志の狼婦へ語り、心を慰め給ふべし。我またかかる不思議を見たるも行者の面目なり。
早々御受取り下さるべし」
と勧めければ、掃部大きに悦び、貴客の御親切、狼婦へ語り安堵させ申さんと、かの守り刀を受取り押し戴きて威妙院をもてなし、切金五十貫を取り出し、
「是は刀の価にあらず、貴客へ寸志の御礼なり」
と、差出しければ、
「いや、かかる御礼を受くるの筋なし」と言ふ。
掃部親子強いて勧めければ、然らばとて其内四、五貫文分を受納し、
「是は方々の無事開運を祷らんが為に志を受納申す也。此上余分を勧め給はば一銭も受け申すまじ。
又、この度の怪変神仏に誓ひ、わが口外へは出し申すまじく、此旨御内室へ伝へてたべ。早御暇申すべし」と立ち出づる。
掃部暫らく止めけれども、
「われ暫しも逗留せば却って人に怪まれん。行先を急ぐ身なり」とて、止まる気色見えざれば、里の端まで送りつつ立ち別れてぞ帰りける。
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