牧女暇乞いの事   付、親子名残を惜しみ歎きの事
かくて親子の人々は威妙院を見送り、私宅へ帰り刀を携へ、牧女の隠れし一間へ行きて見れば、牧女は今朝見し姿を顕はし、萎れ果てたる有様にて常の如くに座し居りたり。

親子は大きに悦び、右と左に座しながら疵の痛みを尋ねける。
牧女顔をあげ、
「うれしくも問はせ給はるものかな。守刀こそ御手に入り候ひつらん」

其時左衛門、山伏の次第つぶさに物語り、守刀を示しければ悦ばしげに打ち笑み、「此上は心にかかる事更になし。」

「山伏の持ちたる刀我が通力にて取り得んにかく深手を受くるにはあらねども、一方ならぬ行者と言ひ剣の威徳勝ちし故、はからず疵を蒙りしなり。

されば我指図に依って多くの狼集りたれども、積徳の勝れし山伏なれば行徳に恐れ、取り得ん事かなはず、我を呼びてしきりに啼く声、人間に通ずる筈はなけれども、行力の深き威妙院なれば、彼が耳へ<カモンカモン>と聞こえしならん。

最早かく顕はれし上は暫くも人間に交り居る事かなはねば、唯今此家を出で去るべし。
御暇候はんといえども是まで左衛門殿の孝心忘れ難く、別れん事の悲しさよ。

又、娘民女はかくとも知らず、我なくなりし後にて慕ひ難からん事の不憫さよ。

悪人牧女が生みし子とは言ひながら、金吾こそ沢右衛門が種なれども、民女は正しく君の種なれば、是まで愛しみ育てしなり。
兎にも角にも方々へ名残こそ惜しけれ」

と、泪に咽び語りける。

掃部、牧女の膝元へすりより、
「いかなればかかる情なき事を申すぞ。伝へ聞く昔人神四代の主彦炎出見の尊、竜身の化神豊玉姫を娶り、ウガヤフキアエズノ尊を生み給ふ。

又、近くは北條四郎時正芸州厳島の社再建の時、平相国清盛の指図を受け普請奉行たりしが、信仰深かりしかば、御宮建神慮に叶ひけるにや、ある時弁財天女美女に化して時正に仕へ、政子と言ふ姫を生み給ふ。

此姫後には日本武将の元祖、征夷大将軍、源頼朝卿の御台所となり、後尼将軍と言ひしは是なり。

政子の母上姿を隠し給ふ。御形見とて霊蛇の鱗三枚を残して去り給ふ。
それより北條家立羽の蝶の紋所を改め、三つ鱗に替へしは此の謂なり。
其外、霊獣の化身して人間に変はりし事、和漢とも其ためし多し。
然るに其方先妻綾女に受けし恩を報ぜんが為、是なる左衛門が命を助け、其上当家重代の宝剣を取り返へし、我等親子が仇となる悪人沢右衛門、牧女をとりて貞心忠義を顕はせし事、人間の及ばざる所なり。

されば身は狼の変妖なりと雖も、魂は人間に勝れり。
はからずも此度顕はるるとも、我等親子、威妙院、此三人の外知る者なし。

また威妙院は此度不思議の狼婦の貞忠感ずるに堪へたり。堅く神仏に誓を立て口外へ出すまじ、此旨其方へ伝へよと語り申し置きし上は、外に洩れんことあるべからず。

されば是までの通り当家に留まり、我等が命ある内は必ず家を出で給ふな。」

牧女これを聞き、
「斯く忌はしき我を恐れ給はず、事をわけて留め下さる御志、有難くもうれしく思ひ候へ共、顕はれぬまでこそ人間に交はれ、顕はれし後は人間に交はる事これ叶はぬは、死せる人の再びまみえぬが如し。

是は人々の知り給ふにあらず。されば先年真禅法印に戒を受けし時、君物陰より見給ひしに、法印<狼形婦女発菩提心>と唱へ給ひし時、此心を悟り給ひなば、其時身を隠さんと思ひけれ共君是を悟り給はぬ故、是まで斯て候なり。

われ神通にて本体を変妖すと雖も、法印仏徳の目には狼と見られしなり。然れどもたとへまこと人間にても身の業因によりて、大徳の目には畜生と見ゆる事もあるなれば、是は凡夫の知らざる事なりと思ひ止まり申せしなり。

豊玉姫の事を仰せられ候へ共、是も御産の時我産屋に来給ふなとありしを、尊産屋を覗き見給ひしに大蛇の形を顕はし給ひしを見られ給ひし故に、再び尊にまみえ給はず竜宮へ遁げ去り給ふ。

又時正も始の程は知れざりしに、政子と言ふ姫を生み給ふにつき、母上の素性を厳しく尋ね申さるる故、是非なく形見に三枚の鱗を残し姿を隠し給ふ。かかる貴き竜神だに本体顕はれし上は、人間に交り居る事なり難し。

其外霊獣の人に変妖せし事ありと雖も、顕はれし後止まりし事なし。
まして賤しき狼の類、人に近よる事ならざれ共、諏訪明神の霊徳を蒙り、神通に化現の術を授かりし故、後妻牧女と姿を現はし是まで御身に近よりし」
と語りければ、左衛門泪を流し、
「如何に母上、人間に生を得たる者にても畜生に劣る類ひの者世に多し。たとへ姿は狼と変し給ふとも、母上の如くなる貞女は世に類ひなし。
されば父の申さるる如く、此事我等親子、威妙院より外知る者なし。
御身は狼に変じ給ふとも、我は大恩を蒙り命を助けられし母なれば、何卒家を出で去らず如何なる場所にか隠れ止まり、我に報恩の孝を尽させ給へ。
せめて父上の一生は、此家を去り給はず留まりてたべ」

と、母の袖にすがりて頼みける。
誠に是までの掃部への貞心、左衛門への愛敬、人の及ばぬ親切なれば、別れに臨みて名残を惜しむもことわりなり。

牧女流るる泪を止めかね、
「聞き給へや左衛門殿、今も申す如く我は何程留まりたく思ふとも、叶はぬ事は是非もなし。さらば我形見に狼の木像を造り給へ。我魂其像へ移り留まらん。
それを母と思ひ給はば土蔵の中へ安置し、折々香花を供へてたべ。
わが霊魂は仏果を得て都卒天に生まるるとも、忠義に凝ったる念力は通力自在の狼王となり、かの木像へ留まりて、末世に奇特を顕はすべし。

是をわが形見と思ひ給へ。われ不思議の縁にて、先妻綾女様より受けたる恩を報じんと思ふ一念深く神に通じ、霊神の威徳を蒙りて人間に交はり、先奥方の後を追ひ、貴き聖戒を受け仏道に入りし事、畜生の身にとりては盲亀の浮木に逢ひしが如く、憂雲萃を得たるに等しき悦びなり。

有難や、今日畜生の形を改め捨てん。わが真の姿は、この縁の下へ隠し置くべし。
明日尋ね見給ふべし。
人の目にかからぬ様に、いづくなりとも埋めてたべ。是までなり。」
と言ひ捨て立ち出でんとするを掃部親子左右の袖に取りつき、先ず暫くと引き留むれば、不思議や衣裳は其侭に、身は忽ちに消え失せて影も形もなかりける。

不思議と言ふも愚なり。

掃部、左衛門に向ひ、「最早歎く事なかれ。か程に留めてもよくよくの事なればこそ、形を隠し候ひしぞ。此上は言ひ置きしことばに随ひ、狼の像を造り追善をなさんこそ報恩孝行なるべし。

脱け出でし衣服を其侭、帳台の床に直し置き、翌日、人知れず親子縁の下をよく見れば、其様大きなる女狼の姿眉間に刀疵のつきたるが死して伏したりける。

ひそかに内へ隠し入れ、俄に棺を造り、牧女病死の由披露し、葬式叮寧に取り行ひ、先妻の塚に並べて葬りける。

此事外に知る人なしと雖も、世の言葉にかかりしは、天人口を以て言はしむるなるべし。

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