宿南重郎左衛門輝直兄弟、羽柴美濃守と合戦の事
付 宿南落城の事
それより年暦、はるかにへだたり天正五年丁丑の夏こそ、時、人皇百七代正親町院の御宇、当国の太守・山名右衛門督昭豊の代に当って山名大いに衰ふ。この時、宿南の城主は八木右京より四代の孫、宿南修理太夫輝俊なり。

時に播州姫路の城主・羽柴筑前守秀吉、当国に攻め来り、朝来郡竹田の城主・太田垣左衛門太夫宗勝、合戦すといえども、羽柴の猛勢防ぎがたく、たちまち落城におよぶ。

宗勝行方しれず落ち失せり。(その時、この城、赤松左平衛督則貞しばらく在城)

八木但馬守豊信、一戦にもおよばず因州へ出奔す。これより羽柴二手に分る。筑前守は近国の一揆蜂起する由、注進ある故、当国を捨て置き播州へ引き返し、当国は舎弟・美濃守秀長(はじめは羽柴小市郎と云ふ。後に大和大納言と云ひしなり)養父、出石、気多、美含(みぐみ)城崎を攻むべき由を命じ、朝来、七味(ひつみ)、二方をば藤堂與右衛門高虎に命ぜらる。

かくて美濃守、気多郡へ攻め来る由聞こへければ、垣屋駿河守広重、同じく平三広則、美含郡轟の城を出で西村丹後守が居城・気多郡水上の城に立てこもり、林甫の城主・長越前守、上ノ郷に赤木丹後守、伊福に下津屋伯耆守、国分寺に大坪又四郎、宮井に篠部伊賀守、宿南に修理太夫、浅間に佐々木近江守義高、八木に藤井左京、上山に上山平左衛門、坂本に橋本兵庫、朝倉に朝倉大炊、その他、諸士会議す。

これ皆、山名の家臣にして、ありは一荘あるいは二荘、一村二村その当り行はるる所を領し、山上に屋敷を構え、または平地役所建て軍役を勤む。

これらの名々評議して曰く。

今、山名家衰へたりといえども二百余年当国の太守たり。
たとへ羽柴大軍にて攻めよせたりとも、なんぞ手をむなしくして国を渡さんや。各々、一命を果たし恩を報ずるの時至れりと、互いに約を定め合戦を今や今やと待ちいたり。

この時、天正五年、羽柴美濃守、大軍にて早や小田野まで攻め来る。宿南修理太夫輝俊、近辺の小城主を語らい伊佐野の西に出向かふ。

折節、修理太夫にわかに病気発起して出陣難儀なりければ、嫡子・重郎左衛門輝直は舎弟・馬之助直政、家臣大嶋勧解由、池田蔵人、片山五郎左衛門、池口勘兵衛、近郷の小名には朝倉大炊、大坪又四郎、三方左馬之助、赤木丹後守、その勢五百余騎伊佐野の西へ出で向ふ。

川の東なる伊佐野には、佐々木近江守、橋本兵庫、同じく権之助、二百余騎、川原表に出向ふ。

羽柴の勢、二千余騎、ときの声をあげて打ってかかる。
川東の味方、河原表に立ち並んで弓鉄砲を放つ事雨の如く、川西の味方は我城近くへ敵を寄せじと火花を散らして攻め戦ふ。

しかれども、羽柴大軍なれば、射れども撃てどもものともせず新手を入れ替へ、山の崩るるが如く打ってかかる。

味方の先手防ぎかねて見へければ、宿南重郎左衛門、舎弟馬之助家臣大嶋勧解由、池田、池口、片山などいへる血気の勇士二十四人、馬の頭を立て直し、太刀を真っ向に差しかざし必死と極め切り入りければ、これに続いて朝倉大炊、大坪又四郎、三方左馬之助、赤木丹後守、二百余人、血煙を立てて攻め戦ふ。

中にも宿南重郎左衛門輝直、今年二十七歳、身長六尺余、力量人に優れし豪傑なりしが、敵陣に馬を乗り入れ、大音声にて呼ばはりけるは「表米親王の末葉、宿南修理太夫輝俊が嫡子重郎左衛門輝直なり。羽柴小市郎はいづくにある。出であいて我太刀先を試み給へ。」と云ふ。

ままに、雷の落つるが如く敵陣に切入り、七縦八横当るを幸ひ切って落とす。その勢ひ項羽が彭城の戦に漢の大軍を切り散らせしもかくやと見へておびただし。

されどもその身金石にあらざれば、数ヶ所の手傷を負ひ、鎧に立つ矢は蓑の如く、流るる血は滝の如しといえども、輝直少しも屈せず味方を下知して防ぎ戦ふ。

敵味方のおめき叫ぶ声山河に響き渡って凄まじく、暫時が程は入り乱れて戦ひしが、大勢に取り巻かれ赤木丹後守、大坪又四郎始め、味方多くは討死す。

秀長勢、兵を二つに分け、一手の兵は川を真一文字に渡って撃ってかかる。伊佐野に控へたる義高が勢、暫く支へ戦ひしが、忽ちに敗北し、己が居城をさして逃げ篭り、城門を閉じて出会はず、川西の味方も大半討たれければ、重郎左衛門兄弟、朝倉大炊五十騎ばかりにて撃ちなされ、宿南の下なる浅倉の嶮路を小楯にとり、敵寄せ来たらば下なる深淵に追ひ落さんと伏兵を構へて控へたり。

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