その頃宿南の庄へ在城せる城主は八木右近とて、当国大守山、伊予守・時義の幕下、八木但馬守の舎弟にて、宿南の小城主・修理之助光直の養子なり。宿南右京といふ。所領、数ヶ所持ち来り権勢重く、八木但馬守の如く、外々の小城主尊敬せり。

 然るに性質悪逆にして智ある者あれば刑罰に行ひ、領地の百姓に貢の外、夫役をかけ、奢りつよくはなみを好みける故、領地の百姓なげき怨むといえども領主の権勢におそれ、一統世渡りに苦しみける。

 掃部は豊饒にして夫役にかかはらずともいへども、右京の養父・修理之助に因縁ありし上、祖父・左衛門信豊、義理堅き武士にて二君に事へず。光政の領内に隠住し、民家といえども陰士と呼び、城山の麓に閑居してけるゆえ、余の平百姓とはちがひ、貢の外には諸役を受けず、内証自然と豊か也。

 その頃近辺へ猪鹿大いにあれて作物を害ふこと甚し。これによって里々の農家、家内の老若男女、銘々の作場に手分けをなし、太鼓を打ち拍子木を鳴らし番をなせり。されども少しく懈怠あらば作物をあらす故、夜分といへども、家に留まる者とては幼き子供や、用に立たざる老人ばかりなり。

 その頃は諸国乱れて静ならず、国々に漂泊せる牢人など、此の国に多く徘徊し、夜な夜な人家へ押し入り金銀米穀は勿論、着類雑具に至るまで、盗み取るゆえ、里々の百姓、内を守らんとすれば外なる作物を害なはれ、外を守らば家危うし。

内外の難儀に心を苦しめ、片時も安き隙もなく当惑せり。

 これにひきかへ、掃部の家は田畑多けれども番をも附けず、只常の如く打ち捨ておくといへども、畔を界として猪鹿少しもさわらず、皆、不思議也と風評す。先年内室に救はれし狼の守護するならんと言いあへり。

 また、池田助次郎に男子二人、女子ひとりあり。兄は勝之助、弟は竹市といふ。兄勝之助は掃部の長子・鶴千代に二年早く出生し、今年十七歳、力衆人に勝れ、幼少の時より武芸を好みければ、父・助次郎、これを諌め、汝が父助左衛門までは、武道を専らにせしが、これも主人左衛門殿、二名に仕へんことを恥ち民家に降りたまひしなり。父も主人に従ひ、武を隠し農業をなして身を終われり。われ亦父が跡をつぎ、主人掃部殿へ仕へ業をんして妻子を養へり。汝もわが如く鶴千代君に仕へ、二心なく御奉公致すべしといふ。

 勝之助、父の詞を聞き、さしうつむいて居たりしが、昔より代々土民の家に生まれなば是非もなし。主人の御祖父・左衛門信豊殿は武勇勝れし御方、わが祖父・助左衛門も武に秀でし人にして、主人・信豊殿と共に数度の合戦に功ありしこと人口に及びし也。

 信豊の二君に仕へたまはずして、かく山谷に閑居ありしは、南方の官軍、時を得て蜂起し新田の人々、義兵を挙げたまはば、その時切って出でん御所存也。

 然るに明徳3年南帝御和睦ありて三種の神器入洛したまふ。之に依って諸国の官軍力を落とし、或は自害し、又は諸所に漂泊し、和田楠は紀州へ蟄し、新田の人々も四国に蟄居し、あるか無きかの如く衰へたまひしかは、信豊力を落とし、其年卒去したまふこと鬱憤凝って骨髄に徹したまふが故也。

 かかる義士の子孫としてかく民家に降り、山谷に埋もれ木となり果て給ふこそ口惜しけれ、当君や父はともかくも、われは武芸を学び、軍法に秀でなば然るべき方に身を寄せ立身し、一度主人御兄弟の内を世に出だし奉らん。

 つらつら当世の有様を考へ見るに、将軍足利の武威衰へ国々の諸侯武将の名を軽んじ、叛逆の企てある大名世に多くして、かかる時節に生まれながら武道の心がけなく、一生農夫となって朽ち果つるは口惜しき次第なり。

 われは祖父助左衛門が気質を受けつぎて一度思ひ定めし事は身を果たすまで翻す心なし。農夫となって主に仕へさせんと思し召さば弟竹市に跡を嗣がせたまへ。われは心にかなひし方に身を寄すべければ武芸に稽古を許したまへと、思ひ込んだる面色なれば、父助次郎せんかたなく、左程に思ひなば汝が心にまかすべし。

 懈怠なく、武道を鍛錬すべし。かへすがえすも主人をおろそかに思ふべからず。われも汝の申すところの心なきに非ざれども、心ならず農業をなして一生を過ごせしといふ。

 ここに宿南右京殿の近習に、大島兵庫といふ剣術無双の達人あり。これは新田の家臣・郷孫三郎といふ勇士の嫡孫なる由。されば力量人に勝れし豪傑にて、八木但馬守よりの付人なり。勝之助、この人に従ひ武芸を励みける。かれ智謀にすぐれ、力量人に越えたれば、兵庫深く愛し、十三歳の年よりこの人に仕へける。

 掃部は嫡子鶴千代の片腕になるべき者なりと、彼が武芸に秀でしを喜びし也。二男喜代若、之を見習ひ武芸を好む。兄鶴千代は智恵勝れて発明なれども、その身弱和にして武道をきらひ文学を好み、朝暮母の側に居て読書の外他事なし。心やさしく孝心深ければ、父母の寵愛浅からざりし。

 然るに近年飢饉打ち続き、農業商家とも渡世に苦しむ。その上に諸国乱れ世上騒がしかりしが、当国の大守山名伊予守時義より軍役の用金かかり、手下の領主、之を取り立つる。この近辺は垣屋筑後守、百姓町家に至るまで取り立つること甚だ厳重なり。

 されば下地の飢饉に困窮せる上、かかる取立てにあひ、無力の百姓は着類まで売り払ひ怨みなげくもあり、又は力及ばずして在所を立ち退くもあり。宿南右京の領地は別して近年困窮し,比度の夫役に差し詰まり、調達の術なく、住所を捨て逃げさる者多し。

 掃部は内証ゆたかにて、庄内の百姓至て困窮の家には金子を出し恵みければ諸人深く悦べり。ある時掃部の舅、長甚太夫より要用ありて美含郡林の方へ行きしが、手代助次郎並びに下男一人召し連れる。よんどころなき用事にや両三日逗留せり。

 折節、鶴千代近頃病気になりしが、此の一両日別して重く見えし故、助次郎主人と一緒に出づる時、子息・勝之助を招き、われら今日主人と共に美含に行くなり。折悪しく、鶴千代様大病なれども、よんどころなき要用なれば下男も一人召し連れらる。家内不人なれば、汝、今日より我ら帰るまで、兵庫殿へこの訳を願ひ、留守いたし、御病人へ気をつけ候へといふ。(次のページへ)
付 助次郎が嫡子・勝之助夜盗を討ち取る
 狼、掃部の田畑を守る事