ニューヨークのカーロ(26歳)とリベラ(47歳)

 参考文献、他

*「夢人館3 フリーダ・カーロ」岩崎美術社
*ローダ・ジャミ「フリーダ・カーロ」河出書房新社
*加藤薫「ラテンアメリカ美術史」現代企画室
*モーリス・ナドー「シュルレアリスムの歴史」思潮社
*(美術展)「カーロとリベラの家 ファン・オゴルマンの建築」
        ワタリウム美術館(1998年4 月25日〜8月30日)
これが、フリーダ・カーロの生涯であった人の想像をはるかに超えた苦痛に満ちた生涯でありながら、しかしその裏には不気味なまでの華やかな交際があった。

全く驚くべき人生であり、こんなにも数奇な運命を辿った女性を他に知らない。

フリーダの所には、
あまりにも魅力的な人物が後から後から訪れ、まさしくそこは、20世紀半ばにおける文化の台風の目となった

誰もがフリーダに恋をし、フリーダも人を愛することをやめなかった。
 
メキシコの地において繰り広げられたこの
壮絶な日々は、フリーダ自身の死によって締めくくられたが、しかしそれは大きな傷跡を彼女の絵の中にに遺していった

私たちはその傷跡を、彼女の絵の前で言葉を失いながらも、受け止めなければならない

フリーダの遺したもの
しかしフリーダ健康状態は年々悪化し、体はそろそろ限界がきていた。新しいコルセット、背中の手術、耐えられないほどの苦痛に抵抗するには、やはり絵を描くことしかなかった。50年代までの間に、彼女は数々の美しくも苦しげな絵を描いた。そしてフリーダは、ゆっくりゆっくり死へと向かっていった。
 
1950年にはフリーダは最悪の状態になり、何度も何度も手術を繰り返した。しかし彼女にはそれに耐え抵抗する力は残されていなかった。そして1953年、
46歳になったフリーダは最後の手術を行い、右脚膝下を切断した。

1954年の7月2日、ほとんど力の残っていないフリーダだったが、スカーフをかぶり、リベラが押す車椅子に乗って、無理矢理共産主義者のデモへ参加する。そして7月13日、
フリーダは肺塞栓症を起こして死亡する。

フリーダの死
展覧会の後、フリーダはまたニューヨークへ戻るが、写真家のニコラス別の女性と結婚してしまい、悲しみの中リベラとの再会を恐れながらもメキシコへ帰る。

リベラ
はリベラでフリーダのいない間も恋愛沙汰がいろいろあったようで、なんと女優のポーレット・ゴダードともしばらく恋愛関係にあったようだ。

そして結局2人は離婚する。

フリーダは精神的な辛さと肉体的苦痛の両方に苦しめられながら、それでも数多くの絵を描いた。そして1939年から40年にかけてメキシコで開かれた「国際シュルレアリスム展」へ2作品出展した。

 
1940年5月、
壁画家シケイロスらによるトロツキー暗殺未遂で、ディエゴは即警察から疑われるが、ボーレット・ゴダードのおかげで難を逃れ、サンフランシスコへ発った。

そして8月21日、
トロツキーはメキシコで暗殺される。フリーダの信用していた人物が実行者であったため、フリーダは倒れてしまう。

フリーダは治療のために、サンフランシスコへ行き、
リベラと再会する。
そして2人は再び結婚するのである。
同じ年の12月8日のことであった。


離婚、そして再婚
1938年には、今度はアンドレ・ブルトン夫妻がサンアンヘルへとやってくる。

アンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム運動の指導者であり、シュルレアリスムを体現する詩人・作家であった。ブルトンはフリーダの絵を見て、彼女が生来のシュルレアリストであることを宣言したが、フリーダは傲慢で理屈っぽい態度に対して不満を抱く。

また
、彼女の描いた「水が私にくれたもの」という絵を見てブルトンは、彼の書いた小説「ナジャ」の主人公が語った『私は鏡のない部屋の中の浴槽に浮かぶ思考である』という言葉を知らずに描かれた、その言葉どおりの絵だと語った。そしてブルトンはフリーダの展覧会をパリで開くことを勧め、約束する。
 
ブルトンにとってトロツキーとの交流も、非常に実りあるものであったようだ。彼はトロツキーを、非常に賢明で理解力のある人物だと思った。
トロツキーは、この1938年における芸術は、革命的性格を守り続けるためには、あらゆる形態の政府から独立していなければならないし、如何なる命令に従っても、奉仕をしてもならなく、自分自身の方向と義務に向かって行動し、また誠実な人々によって行わなければならない、と考えていたが、ブルトンもまさしく同じ様なことを考えていたのだ

2人の間で、独立した革命芸術家の国際同盟をつくる構想が持ち上がった。その結果が「独立革命芸術のために」という共同声明である。そしてブルトンはフランスへ帰っていった。
 
その年の秋、フリーダはニューヨークで個展を開く。そこで写真家の
ニコラス・マーレイとの恋愛によって、体の痛みを慰めた
ディエゴはメキシコに残っており、2人の関係はおおっぴらなものとなっていった。
 
そして翌年の1月に、パリの個展へ向けて
フランスへ出発した
展覧会の準備には様々な困難が伴い、フリーダは孤独感を味わったが、それでも
マルセル・デュシャンや、イブ・タンギー、マックス・エルンストら当時のフランスを代表するような芸術家達との出会いに喜びもした。

展覧会は、結果として商業的に成功はしなかったものの、様々な芸術家から彼女は認められることとなり、
ルーブル美術館が彼女の絵を買った。彼女の評価は、ここに極まったのである。


アンドレ・ブルトンとの交流
リベラに傷つけられてばかりでは辛すぎるとばかりに、フリーダリベラ以外の男性達との恋愛に身を任せ、時にはリベラの女達とも同性愛を楽しんだ。
 
その中の1人に、
イサム・ノグチがいる。彼は当時すでにニューヨークで注目されだした新進気鋭の彫刻家であったが、グッゲンハイム財団の奨励金を得てメキシコへやって来て、市内の建物の壁画を8ヶ月かけて制作していたのだ。

ノグチはフリーダに会ったとたん一目惚れした。2人はたちまち恋に落ち、何ヶ月もの間、ディエゴの目を盗んでは密会をしていた

しかしリベラは自分の勝手な女性関係にも関わらず、フリーダの男性関係には非常に嫉妬し、
結局彼がノグチを追い出してしまった。
 
そして次にやってきたのは、あの
トロツキーであった。1937年、スターリンに追われてメキシコにやってきたトロツキー夫妻を、リベラ夫妻はコヨアカンの<青壁の家>に迎え入れた。

そしてトロツキーもまた、フリーダと恋に落ちたのであった
。フリーダは華やかな民族衣装と軽妙な会話で、傷つき疲弊した亡命者トロツキーを慰めた。
リベラは2人の関係に気づかなかったようだが、トロツキーの妻はもちろん気づいていたし、2人の背後には困難な政治的背景があり、結局2人の恋は静かに終わりを迎える。

しかしトロツキーは他に安住の地を見出すことができずに、コヨアカンに留まり続けた。
同じ頃、リベラは反トロツキーへと転身してしまう

華々しい恋愛遍歴
 2人の結婚生活は、初めから決して平穏なものではなかったようだ。

2人は共産党員であったが、
リベラが政府委託の仕事を引き受けたことなどから、党が彼を批判し、2人とも離党することになる

1930年には
フリーダ初めて妊娠するが、胎児の位置が異常であったために中絶を強いられた。フリーダは肉体や精神の苦悩に絶えず襲われたが、しかし彼女の強靱な精神力は、苦悩の全てを彼女自身を燃焼させるエネルギーへとかえていった。
 
彼女はリベラの好きなメキシコの
民族衣装で着飾り、周りに人を集めては、女王の様に、陽気な振る舞いを見せた

フリーダが常にメキシコに古くから伝わる民族衣装、特に
母親の出身地であるオアハカ地方のテワナ衣装に身を包むのは、リベラがそれを好んだからであり、また衣服は彼女にとって大切な思想でもあった。

古い因習にとらわれず、革新的な考えを持つフリーダであったが、その一方でメキシコの根っこを大事にし、自分のアイデンティティを育てていったのである。
 
1931年には
2人でニューヨークへ行く。
フリーダにとって初めての大旅行となったが、そこで彼女の病状は悪化し、また定期的に絵を描き始める。

夏にはまたメキシコへ戻るが、この頃の2人は充実した幸せな日々を送っていたようだ。
ロシアの
映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインとも友達となった。「メキシコ万歳!」を撮影しにメキシコを訪れていたのだ。

そして冬にはまたニューヨークへ戻った。近代美術館にて「ディエゴ・リベラ回顧展」が開かれたのだ。この回顧展は大盛況であったようだ。
 
翌1932年、
アメリカでフリーダは2度目の妊娠をするが、今度は流産してしまい、彼女の苦悩はさらに深まっていったが、さらに1934年にメキシコで、再び中絶することになる。彼女はやはり妊娠できる体ではなかったのだ。

しかもさらに悪いことに、
リベラフリーダの妹クリスティナと仲が深まってしまった。

この2人の関係は長く続き、リベラの数多い女性関係の中でも特に、フリーダを深く傷つけた

苦悩に満ちた結婚生活
 同じ年、2人はコヨアカンに近いサンアンヘルに2人のアトリエ兼住居を建てようと、当時まだ若かった建築家のファン・オゴルマンに設計を依頼する。

オゴルマンは1931年に計画に着手し、1932年に完成した。
オゴルマンの建築は完全に幾何学的な近代建築で、メキシコの機能主義的建築のもっとも初期の作品であるが、非常に巧みな構成を持ち、スケール感があり、力強いヴォリュームのある建築となっている。

また壁に塗られた色彩と内部空間には、メキシコ特有の魅力にあふれている。(この建築は今もサンアンヘルに残っており、近年修復された。)

この家は二棟に分かれており、赤く塗られた「大きな家」がリベラのアトリエで、青く塗られた「小さな家」がフリーダのアトリエだった。家の周りにはサボテンの垣根がぐるりと囲んでいる。

 2人が実際にこの家で暮らした期間は、1933〜35年と、1938〜39年という短い期間だったが、その間に多くの画家がこのアトリエで生み出され、世界中の芸術家がこの家を訪れることとなった。まさにこの家は、
当時のメキシコ文化の中心とも言える場所であったのだ。

 また、有名画家の家を若くして設計した
オゴルマンは、その後リベラの政治的なバックアップもあり、大がかりな公共建築などを多く手がけていったが、しかし自ら取り入れた近代建築に失望し、1950年代に建てた自邸は、怪奇趣味的で幻想的な建築であったし、結局建築そのものに失望したのか、活動の中心を絵画へと移していった。彼のプレ・コロンビア的な幻想絵画への転向には、やはりリベラの活動や言動が大きく影響したようである
参考画像・・・・カーロとリベラのアトリエ


 オゴルマンの「カーロとリベラの家」
1928年の初頭頃には、フリーダメキシコの芸術界に出入りするようになり、共産主義闘争にも参加していた
共産党にも入党した。

フリーダのまわりは、議論の熱気で包まれる。国家状況、闘争の活動方針、思想や芸術に対してとるべき行動など、話題はいくらでもあった。

そんな熱気の中で、フリーダはとうとう
ディエゴ・リベラと出会う。
 
ディエゴ・リベラは、20世紀のメキシコ人画家としては最も有名な存在だ。
1886年生まれのリベラは、20歳の頃にイタリアへ渡りルネサンス壁画を研究した後、ヨーロッパ各地をまわるが、1921年メキシコに帰り、壁画運動の旗手となる。

女性関係の華やかな人物としても有名であった。

フリーダは、この、
太った醜い、しかし魅力的で、メキシコ社会のインテリや芸術家の世界で名を馳せていたリベラの所へ、大胆にも自分の絵を見せに行く。

リベラはフリーダに絵を続けるよう勧めると同時に、フリーダ自身にも興味を持つ。2人は急速に親しくなり1929年の夏に2人は結婚する。

その時
フリーダは22歳、リベラは43歳を迎えるところで、リベラにとってフリーダは3人目の妻であった。

リベラは非常にバイタリティとユーモアにあふれた人物であり、彼はフリーダの率直さ、頭の回転の速いウィットに富んだ快活さに強く惹かれたようである。 


ディエゴ・リベラとの結婚
 そんなある時、母親がベッドの天井に鏡をつけた。

自分の顔を見続ける羽目になったフリーダは、
無性に絵が描きたくなり、自分をモデルに自画像を描きだした。

この鏡との睨み合いが、自分を描くことが生涯のテーマになる大きなきっかけだった。
彼女にとって絵を描くとは、自分を描くことに他ならなかったのだ。

体が不自由ながらも、母の工夫によって、フリーダは絵を描くことができた。
丁寧に描き出された彼女の最初の絵は、
アレハンドロのためのものだった。
1926年の9月、その自画像はアレハンドロに送られる。
 
アレハンドロはフリーダの絵にいたく感動し、しばらく離れていた心がフリーダのもとへと帰っていった
しかし心は戻っても、アレハンドロ本人は、地理的に遠いところにいた。それでもフリーダは手紙を送り続けた。
彼こそがフリーダにとって命の綱であり、生きる勇気と希望であった。
 
この恋文は、一時ふたりの関係を修復したかのように見えたが、やがてアレハンドロは、フリーダの友人と恋に落ち、フリーダの元から去ってしまう。

その時から、残されたフリーダの絵画の人生がはじまるのである


自画像
そんな幸せな高校生活もつかの間、フリーダの後の人生にとって決定的な悲劇が起こる。

1925年9月17日の夕方、
アレハンドロと共に木造のバスで帰宅途中、乗っていたバスが路面電車と衝突したのだ

その事故で、
ステンレスの手すりがフリーダの腹部を貫通し、脊髄と骨盤がそれぞれ3カ所折れ、右足は11カ所骨折、そのほかに肋骨や鎖骨も折れていた。

フリーダは体の痛みと死の恐怖に苦しむが、手術は成功し一命をとりとめる。当時の医療水準を考えると、まさしく奇跡であった。事故から3ヶ月ほどで自力で歩ける程度には回復したが、後遺症は残り、ずたずたにされた下腹部への恐怖がフリーダを苦しめる。

自分はもう子供は産めない体なのか
、誰に聞くこともできなかった。そして事故から1年後に、また病状がぶり返し、動けなくなってしまう。

以後、
30数回の手術と、28個のコルセットによって、フリーダは絶えず背中と右足の痛みに苛まれることになった。
 
ベッドに横たわったままのフリーダは、必死の思いでアレハンドロに手紙を書いた。アレハンドロは、苦しむフリーダに冷淡な態度でしか答えることができなかったが、しかしフリーダは自分が生き、存在していることの証として、手紙を書き続けた。


 悲劇
この1920年代は、長かった革命の成果が実りつつある時期でもあり、フリーダの青春期は、メキシコという国家の活気に満ちた成長期と重なった。

フリーダは高等学校で「カチュチャス」(メンバーのかぶっていた鳥打帽に由来する名前。)と呼ばれるグループに入り、仲間と共に議論を重ね、読書に耽った。このグループは、創造的、開放的、独創的で、挑発的な、精神におけるアナーキスト集団といったところであった。彼らは当然の如く壁画の制作中のディエゴ・リベラに対していたずらを働く。またフリーダは、好奇心からディエゴの制作する姿を長時間眺めたりもした。
 しかし、まだここでは2人の出会いとまでは至らない。その頃フリーダは、カチュチャスのリーダーであるアレハンドロ・ゴメス・アリアスに、恋心を抱き始めるのである。アレハンドロは、後に弁護士、政治評論家として、メキシコ国民の絶大な尊敬を集めた人物だ。フリーダは初々しく情熱的な手紙を数多くアレハンドロに送っている。彼らはいかにも若く、美しい青春を過ごしていた。この時のフリーダは、画家になろうなどと考えたことは一度もなく、将来は医者になりたいと思っていた。


 青春期
 1920年代に高まった壁画運動は、ラテンアメリカ絵画にとってだけでなく、現代芸術の動向の中でも非常に画期的なものであった。
近代絵画は、”芸術のための芸術”という呪縛にとらわれ、ついにはダダのように芸術の破棄をもくろむ運動も生んだ。
それに対して壁画運動は、この潮流とは逆に、
社会と芸術の関わりを重視し、西欧文明批評、政治プロパガンダ的内容を含んだ壮大なプロジェクトを遂行していった。

この壁画運動の画期的な点は、まずそれまで美術とは無縁であった
社会下層の大衆を第一の観客として設定したことだ。
次には、
メキシコ土着の芸術的完成、風習、生活様式を肯定的に見ようという自覚である。

壁画には、国民の遺産となるような記録としての、
教育の手段としての意味がなければならなかった。従来のタブロー画であると、個人が秘蔵してしまえば誰の目にも入らなくなるが、公共建築に固定された屋外の壁画ならば、誰でも見ることが可能だ。

また、
文字の読めない人々に対する視覚的な効果を考えたのである。
こうして、西欧においては一時期途絶えていた壁画という分野が、メキシコという第三世界の中から強力な美術の表現様式として復活し、逆に欧米へと輸出された。
 
文化相により、壁画が政治的にも教育的にも効果があると判断され、
リベラら壁画運動家達に壁画制作の許可を与えられ、1922年に制作されたその記念すべき第1号は、奇しくもフリーダの通っていた国立予科高等学校の壁であった。
 
活気にあふれたメキシコの20年代は、芸術を科学と同じく、進歩のための重要な推進力であると考えられていた。
芸術家達は自分たちが行動せざるを得ない歴史的状況にいると自覚し、自分たちの芸術とそれを取りまく世間や社会との関係を認識していた。
彼らは自分たちの役割が何であるかを理解していたのだ。



 壁画運動
フリーダは姉妹の中では最も頭がよかったし、よその男の子にもひけをとらない子だったので、ギリェルモはフリーダに国立予科高等学校(大学での本格的な研究のために必要な準備課程であり、現在では日本の大学の教養課程に相当する。)への入学を薦める。

フリーダは入学試験に無事合格し、入学した。1922年のことだ。その頃はまだその学校が女子の入学を許可したばかりであり、
男子が2000人に対して女子が30数人という中の1人に、フリーダは入ったのだ。
 
元々は伝統のある由緒正しいイエズス会の学校であった予科高等学校は、革命によって国家主義の波に洗われ、様々な変革がもたらされ、
メキシコの愛国主義的感情を再生させた中心の一つとなっていった

メキシコの
原始芸術運動を尊重する原始主義である、起源への回帰が興奮をもってむかえられるとともに、土着の根源にまつわる全てのものが価値の高まりをみせた。

文化に関するあらゆる分野の古典を全ての人の手に届くようにするという野心的な政策から、図書館があちこちで開放され、大作家の作品が普及版に収められた。様々な文化的催し物が、低料金で人々に提供された。
 
そしてまた同じ頃、
メキシコの第一級の壁画家達が大活躍した。そのうちの1人である、ディエゴ・リベラこそが、後にフリーダの夫となる人物である


国立予科高等学校時代
フリーダ・カーロは1907年7月6日、メキシコ市郊外にあるコヨアカンにある青い壁のある家(現在はフリーダ・カーロ記念館となっているこの家は、通称<青壁の館>と呼ばれている。)に生まれた。

ドイツからの移民で
ハンガリー系ユダヤ人の写真家である父ギリェルモ・カーロと、スペイン人とインディオの混血である母マティルデの間の3人目の娘であったが、父には前妻の娘が2人いたため、全部で4人の姉と1人の妹がいた。フリーダという名は父によって、ドイツ語で「平和」という意味を持つFriedeからつけられたものだ。
 
ギリェルモは当時のメキシコで
写真家として成功しており、メキシコ政府からの委託を受けていた。彼の正確で精密な仕事は後年のフリーダの画風に大きな影響を与えたという。しかし、1910年のメキシコ革命以降、一家の財政も楽ではなくなった。独裁政府から公式写真家として仕事を受けることはなかったのである。
 
革命の動乱の中、昼も夜も街の中では至る所では、殺人、略奪、破壊、強盗が起こり、たくさんの血が流れたいた、その同時期の1913年に、
6歳のカーロは小児麻痺を患い、右足に障害が残ってしまう。

財政難にもかかわらず、父はフリーダの為にお金をつぎ込み、リハビリを熱心に進めた。しかし病後のフリーダは、周囲の子供達から「棒足フリーダ!」とからかわれ、非常に感受性の強い少女時代を過ごすこととなった。
フリーダは孤独感の深まる中で、空想の世界へと入り込み、また高ぶる自意識から自己陶酔の世界を生んでいったのである。

 フリーダ・カーロについて
 ラテン・アメリカ諸国における現代芸術のなかで、ひときわ目立って、人を強く引きつける芸術家がいる。20世紀前半のメキシコで生きた、フリーダ・カーロという女性の画家である。

彼女の絵は、彼女の人生を知らずには眺めることができない。それは、彼女の絵に描かれている強烈なものは全て、彼女の劇的な運命と共に見るべきものだというだけではない。

たとえ彼女を知らない人であっても、彼女の絵を見ることによって、彼女の人生をも見ることになるのである。

 フリーダは、
身体に辛い苦痛を抱え続けながらも、様々な魅力的な人物を惹きつけ続け、革命以降のメキシコを、実にドラマティックに生きた女性である。その彼女の短い生涯を、激動の時代背景や豪華な人間模様などと共に見ていくことにする。

フリーダ・カーロの生涯