ミスタンゲットは、本名をジャンヌ・ブルジョワといい、1873年、パリの郊外のアンギャン・レ・バンで生まれました。母はフランス人、父はベルギー人(彼女が若い時に死亡)で、椅子やベットのマットを作る仕事をしていました。幼い頃から、彼女はなかなかのお転婆で芝居やサーカスに憧れていましたが、手をやいた両親は、その気質を和らげようと、バイオリンを習わせました。12歳の時、ジャンヌは同じ町の二人の娘とともに、パリへ通ってオペラ座のバイオリニスト、ブッサゴールのレッスンを受けました。

 彼は、
バイオリンだけでなく、歌も教えてくれました。
たまたま、アンギャン・レ・バンとパリを往復する列車の中で顔なじみになったのが
当時売れっ子のレヴュー作家サン・マルセルでした。彼は彼女に、ヒット中のオペレッタの題をとって、「ミス・エリエット」というニックネームをつけました。そして、「君がステージに立つ時には、Miss Tingetteと言う名前にしてほしいね」と言いました。そのころ、彼が作った「ラ・ベルタンゲット」という歌が流行していたので、それと韻を合わせたのです。
MISTINGUETT
 ベル・エポックも、第一次世界大戦によってピリオドが打たれ、シャンソンの主導権は、ミュージック・ホールに移りました。
 ミュージック・ホールは、キャフェ・コンセールよりも、ずっと規模が大きく、そこにはシャンソンのほか、アクロバットや踊り、道化や動物の調教など、バラエティ豊かなショウが展開されます。そして、キャフェ・コンセールとは違って、お客は飲食物を取る義務を負わず、入場料を払ってそれを観賞するわけです。

 英語の呼び名が示すとおり、ミュージック・ホールの起源はイギリスにあります。1840年、ロンドンのウィンチェスター・ホールにおいて歌を含むいろいろな演し物の興行が行われました。これが、大会場でのこの種のショウの始まりでした。さらに1848年、チャールズ・モートンという人がカンタバリー・ホールを使って、モダンなミュージック・ホールのスタイルを確立し、全国に広めました。

 フランスでも、19世紀を通じて、キャフェ・コンセールは少しずつ、サーカスまがいのショウを取り入れたりするようになり、その成功が広くてととのったミュージック・ホールの設立を促しました。こうして、「ゲーテ」(1868年に設立)、「フォーリー・ベルジェール」(1869年)、「カジノ・ド・パリ」(1890年。はじめ1868年にキャフェ・コンセールとしてスタートし、1890年に移転してミュージック・ホールとなる)など、名高いミュージック・ホールが次々に誕生しました。ただし、「ミュージック・ホール」という名称が、フランスで用いられるようになったのは、1893年以降の事であり、ジョゼフ・オルレという人が、同年創立した「オランピア」を、この名で呼んだのが最初です。

 いっぽう、キャフェ・コンセールの「バ・タ・クラン」(1913年から)や、「ムーラン・ルージュ」なども、ミュージック・ホールに転向し、従来のキャフェ・コンセールは次第に消滅していったのです。
初期のミュージック・ホールでは、シャンソンはそれほど重要な地位を与えられていませんでしたが・・・・・・次第にその中心を占めるようになりました。そして、ごく自然に、ふたつのタイプが出来上がりました。

ひとつは、歌手や芸人が順番に登場して、トゥール・ド・シャン(自分の持ち歌を披露して、出番を埋めること。もちろん、キャフェ・コンセールで聞かれるシャンソンのほとんどがそうでした。)をおこなったりする。いわば、日本の寄席のようなスタイルであり、もう一つは、「レヴュー」でした。

 御存知のようにレヴューは、華やかなステージで展開されるスペクタクルなショウです。装置や照明に金をかけ、登場人物はゴージャスな衣装をまとい、時にはヌードを配したりしながら、多かれ少なかれ歌と踊りとアトラクションが結びついたシーンが、次々に進行して、全体としてひとつにまとめ上げられているわけです。

 こういったレヴューの始まりは、1886年、フォリー・ベルジェールで演ぜられた「若者たちの広場」でした。20世紀にはいると、バ・タ・クラン(1910年)、オランピア(1911年)、コンセール・マイヨール(1914年)、カジノ・ド・パリ(1917年)、ムーラン・ルージュ(1926年)などのミュージック・ホールが、相ついでレヴューを上演しました。とくに、第一次大戦後は、戦勝気分も手伝って、大掛かりなレヴューが爆発的に流行しました。

そして、ミスタンゲットは、この分野における、不世出の大スターでした。





 
 キャフェ・コンセールから、ミュージック・ホールへ
「ミスタンゲットは、エルドラードのプリンセスであり、フォーリー・ベルジェールの公爵夫人であり、カジノ・ド・パリの女王だった」
ミスタンゲットは、パリの最上のものを表現する。彼女は、われわれの心に、愛国心を掻き立てる。」
★ミスタンゲットに捧げられたジャン・コクトー(詩人)の賛辞・・・・・・・・・・・・
「ミスタンゲットは完全な美人でもないし、とくに優れた歌い手でも踊り手でもない。けれど、彼女がステージに現れると、その魅力たるや!まさに奇跡的だった・・・・・・」
                
★ミスタンゲットに捧げられたポール・デルヴァル(演出家)の賛辞・・・・・・・
    

 
やがて、ミス・タンゲット(ミスタンゲットMistingettと綴るになったのは、1907年の事です)は、1895年、「トリアノン・コンセール」で歌手としてのでヴューを飾りました。1897年には、「エルドラード」(いずれも、キャフェ・コンセール)に出演し、その後約十年間、ここを根城にして、かなりの成功を収めます。当時、この店の大スターはドラネムでした。

 1908年、ミスタンゲットは、ブッフ・パリジャンで上演された、リップ作のレヴュー「ちびのフローラ」に出演し、場末の小娘を演じました。これは大いに好評を博し、新聞は彼女の脚線美をたたえました。以降、パリの下町娘は、ミスタンゲットの十八番の役どころになりました。

 1909年、彼女はムーラン・ルージュでマックス・デアリーと組んでヴァルス・シャルペー(アパッシュ・ダンス)という激しいダンスを踊り、センセーションを巻き起こしました。マックス・デアリー(1874〜1943)は、本名をリュシアン・マックス・ロランといい、本来は歌手でしたが、何でもやってのける才人で、ミスタンゲットの踊りっぷりを見て、このダンスを思いついたと言う事です。のち、ロンドン公演のパートナーに、彼はダミアを選び、彼女が世に出るきっかけを作ります。

 1911年、ミスタンゲットは大スターとしてフォリー・ベルジェールに出演しました。その相手役を務め、ヴァルス・ランヴェルサント(びっくりワルツ)という、コミックでアクロバティックなダンスをともに踊ったのは、かのモーリス・シュバリエ(1888〜1972)でした。彼は、「エルドラード」時代から、ミスタンゲットのファンでしたが、共演はこれがはじめてだったのです。

 彼女は15歳も年下のシュバリエを愛しました。第一次世界大戦で彼が捕虜になったとき、その釈放を頼みに東奔西走し、スペイン国王に手紙を送ったりして、ついに望みを達したことは、余りにも有名な話です。
 戦争中、(1914〜1918)は軍隊を慰問し、戦後はミュージック・ホールに君臨して、彼女はかずかずのヒットを放ち、レヴューの全盛時代を築き上げました。

   








・・・・・・と、作詞家のアルベール・ウィルメッツ(1887〜1964)は言っています。「彼女は、そのからだの中にリズムを、ジェスチュアの中にファンタジーを、音符には心を動かす何ものかを持っていた。」・・・・と。

こうして、ミスタンゲットは、1951年まで、(なんと!78歳まで)ステージに立ってうたい躍りました。この年の12月、舞台稽古の最中に、狭心症の発作を起こして倒れた彼女は、その後は自叙伝を書いたりしながら静養生活を送り、1956年1月6日、パリの郊外のブージヴァルにある弟の家で、静かに世を去ったのです。
 本日のミスタンゲット(試聴)「百万長者を探して」
      プロフィールと、その足跡
(1873〜1956)
イヴェット・ギルベールが“キャフェ・コンセール”の花形なら、ミスタンゲットは、その後、隆盛を極めた、ミュージックホールの、レヴューの女王と言えると思います。ギルベールと並んで、私の、最も好きなシャンソン歌手5人に入る女性です。(イヴェット・ギルベール、ミスタンゲット、エディット・ピアフ、ダミア、マリ・デュバ)

エンターテイメントと言う事では、一番ではないでしょうか。「女」ということの「悪臭」をこれほど愛すべき姿で振りまきとおした人を、他に知りません。
私の感じるもっとも好ましいセックス・シンボルは彼女なのです。
レヴューの女王“ミスタンゲット”
ミスタンゲット