出石藩主・小出家の三代目、修理亮吉重は寛文6年(1666)家督の際、三人の舎弟に五千石を分封した。すなわち縫殿助に2000石(倉見)、宮内に2000石(大藪)、主殿に1000石である。主殿は山本に陣屋を構えた。

 この山本の小出家の中に、徳川直参旗本・小出助四郎英通の名も見られる。

 山本の小出家の代官を勤めたのが三木家である。三木家は郷士で初代孫太夫は寛文のころからこの地に住み、寛延2年(1749)7代目太郎右衛門勝豊に到って代官職を仰せ付けられ、以後明治維新までその職をつとめる。

 また、山本の陣屋のあった場所をお屋敷と伝えているが、再三の道路拡張で削りとられ、いまはその一部を残すにすぎない。

 陣屋には村野仁左衛門という家令もいたというが、詳細はわかっていない。

 山本の法花寺には、小出家代々の位脾が20数体まつられている。また、同寺には次の通行証も残されており小出斉定なる名前も見られる。

      覚
       
         一、但馬の気多郡山本村禅宗法花寺鐘鋳ニ付而勧化之
           儀相願候  依之通行之節無□御通可被下候
                          以上   小出斎定内  村野仁左衛門
                    寛保元年酉八月廿六日
                    所々御役所
説 明
 代官屋敷は3メートルの築地を以て、約25アールの広々とした平坦な屋敷が残され、今子供の遊び場として開放、更に江戸末期建築の門は、一部改良されているが、水上区公民館として活用されている。

 門に登る道は実に古風で立派な築地道である。代官所跡は各地とも原形を留めるものが稀であるので、この姿を後世に残すべく、昭和44年8月3日、嗣子13世及、一族により、記念碑が建てられた。
現 状
<城所在地図・城崎郡の38・39>
城崎郡日高町山本/日高町水上
(やまもとじんやとみのかみだいかんしょ)
山本陣屋と水上代官所
現 状
 奥八代村は西から東流する八代川を真中にして南北双方より山が迫っているが、特にこの砦は、北に宝城・南に南山が接近している。

 この二つはどう考えても一体のものであるとしか考えられない。双方の間隔城址直線200メートルという近距離にあることと、双方共等高線80メートル、更にどちらも人工による平が造られている。特に南山は平も広い。

 そこから250メートル西に別れ道がある。西に直進すると、おちょうもん(比曽寺参道御中門のあるところと伝える)を経て西ノ下谷に通じ、右折して北に進めば瘡(かさ)の痂(ふた)嶺(とうげ)を経て河江・大岡・小河江の分岐点となり、小河江を経て豊岡市辻に通ずる。

 故に奥八代砦は、国府へ通ずるのどくびに相当するから二つの砦が一体となって、その機能を発揮する事が出来る。

 この砦が八代城主・藤井左京の前衛としての役を果たしたのではなかろうか、或は独立していたものか、全く資料も口伝もないので、はっきりとしたところがわからない。
<城所在地図・城崎郡の37>
城崎郡日高町奥八代字宝城・及字南山
(おくやしろとりで)
奥八代
【3】へ
 谷村・篠部氏の裏から登れば墓地点在す。
ここに個人の物と思われる数多くの五輪塔並に宝篋印塔の残欠が散乱している。
(これと同様藤井側山麓の寺屋敷という所にも散乱している)それより谷添いの山道を登ると道は消え失せてしまう。

 道のない雑木林の笹原を城址目掛けて登るとかなりの平があり、山頂に行く途中、各所に掘割が造られているが、長の年月に相当埋っている。

 眺望は旧国府平野及び、旧八代平野の藤井・奈佐路・谷・中・を一望する事ができる。
     時    代    年代不詳
     主な城主    藤井左京
     現    状

<城所在地図・城崎郡の36>
兵庫県城崎郡日高町谷字城山
(やしろじょう)
八代城
進美寺山掻上城 ・ 岩山城 ・祢布城 ・ 国分寺城 ・ 八代城奥八代砦山本陣屋と水上代官所
城崎郡の【2】へ
城崎郡の【1】
<城所在地図・・・・城崎郡の35>
<城所在地図・・・・城崎郡の34>
<城所在地図・・・・城崎郡の33>
<城所在地図・・・城崎郡の32>
天正年間、羽柴秀吉の但馬征伐に際し、山名の武将として水生山城主・西村丹後守らと共に、謀を以って討つことに失敗、水生城落城と運命をともにした。
 説明
大正11年、弘法大師の信者が発起して、国分寺山及び、水上(みのかみ)村裏山一帯に88ヶ所を建立して石仏を配し巡礼した。国分寺城址もこのコースに当てられこの辺一帯を通称大師山というようになった。

だからここだけは他の城址と異なり、今も楽々と登れるよい道であり、ハイキングコースになり、かなり利用されている。展望が良いので戦時中監視哨が置かれていた。

城址は三段に切開かれ、旧日高、旧国府、一部豊岡市を展望し、東前方に伊福城址、南前方に宵田城址を指呼の間に見る。最上段はかなり広く三体の石像を祭っている。

城址の裏北方水上区分には深さ2メートル、巾6メートルの掘割を築いている。しかも一ヶ所に止まらず、三重にまで築いてある。

相当大規模で典型的な掘割である。

城址の麓から焼米が出土し、秀吉の征伐で焼き払われたのだと伝えている。先年日高町上水道浄水池が建設され、工事中多量の焼米が出土している。
大坪又四郎
延徳3年〜天正8年(羽柴秀吉の但馬平定)
 時   代
 
 主な城主

 現   状

兵庫県城崎郡日高町国分寺字城山
(こくぶんじじょう)
 国分寺城
南北朝の時代、城主高田次郎貞長が、山名時氏に亡ぼされ、その後城主はなかった模様で、その他は不明である。
 説明
急峻、登頂困難である。山頂はかなりの広さの三段の構があり、最頂部が最も広く約3アールある。頂上からは旧日高平野全域を殆ど一望し得る。
   現  状
 
兵庫県城崎郡日高町祢布(にょお)字城山
(ねふじょう)
 祢布城
「但州一覧集」によれば・・・・・
「天正8年(1580)、羽柴秀吉軍が水生城を攻めた時、水生城に集合した城主・西村丹後守垣屋・長・赤木・下津屋・大坪・篠部ら山名氏の諸将は作戦を練った。

浅倉村岩山城の下の細道の難所、(岩歩危)秀吉が通って気多郡に這ろうと、難所に差し掛かった時、岩山城から大石を落とし、秀吉軍が円山川へ落ちて漂うところへ、伏勢を出して討ち取る計画を立て、秀吉軍の来るのを待ち受けたが、宮井の城主・篠部伊賀守は西村丹後守らにうらみがあったので、郷土藤井伊助を使者として、この作戦を密告させたのである。

秀吉軍はこれを聞いて、方向を変え、伊佐を経て浅間坂を越え、出石を攻略し、続いて狭間坂を越して水生城へ押し寄せ、攻め落としたとある。

、「田尻家資料」によれば、浅倉村田尻嘉兵の寛政12年(1800)の「浅倉地図」には、「岩山城主佐々木近江守ナリ。天正年ニ秀公小田村ヨリ水生山ニオモムキシトキ、コノ剣剛ニテ出石へ御通り」と記してある。佐々木近江守義高は浅間城主にして、戦わずして降参したと「宿南掃部狼婦物語」には記されている。
 説明
山陰線江原駅南方浅倉トンネルの上部東寄、屏風のように屹立した岩山にある。南に円山川の渕が迫り、ここを「浅倉の岩歩危」という。頂上には人工による三段の平地が作られているが、非常に狭小である。
  現   状
兵庫県城崎郡日高町浅倉砦
(いわやまじょう)
岩山城
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次は、240年下って、室町時代末期

「但馬一覧集」には、・・・・・信長秀吉を重要視し、陣代に登用、播州を攻めさせ、なお山陰北陸をも攻略の命をだした。このことを憤り畿内を離れなかった光成は、その頃但州出石の子盗(此隅)の城が廃城であると聞いて、登尾峠を越え出石を攻めようと、陣代として大野内膳正続康、伊藤七之助次取、伊藤加助に人数を漆え、出石表へ差し出し、後には進美寺に掻上の城を構えて居たと記している。

しかし河本文書には、水生合戦の永禄合戦を書き改めたが、赤松の陣代と同一人物名が登場する。この頃は史実の発掘により正す余地ありと感ずる。

進美寺は文武天皇慶雲2年(705)行基によって開基されたと伝える天台宗の名刹である。
南北朝時代には、ここは但馬の重要拠点の一つとなり、南朝、北朝に分かれてはげしい攻防戦がくりひろげられた。

延元元年、足利尊氏の命により今川頼貞は但馬、丹後の平定作戦を行うが、この軍に従った土豪に、養父郡小佐郷の伊達義綱がいる。

義綱は8月3日南軍のたてこもる進美寺に向かい、5日には南中尾で熾烈な戦闘を行う。14日には荏原で城中にたてこもる南軍を追い落としている。

それでも但馬の南軍は、新田義貞の子、義宗を三開山に迎えるなどして、勢力挽回につとめる。この南軍を足利直義の部将・小俣来全をして攻撃させる。このときにも伊達義綱とその兄弟貞綱は小俣軍に加わる。

延元2年6月21日には田結庄城、7月26日加悦(かや)荘、8月26日但馬妙見之尾が攻略されるが、このとき進美寺城も落城したのだろうか。翌3年5月には進美寺を伊達義綱に警固させるとともに、同4年、尊氏は進美寺攻囲の北軍に兵糧料所を与えている。(石田松蔵氏「但馬史U」による)
 説明
進美寺より約300メートル東、出石郡と城崎郡境にそびえる須留喜山(4,494メートル)の中間尾根、養父郡城崎郡境。
明智光成   または赤松?
南北朝時代(1333〜)及び、永禄の頃(1558〜1569)
   時  代
  主な城主
   現  状
兵庫県城崎郡日高町赤崎進美寺
しんめいじさん・かきあげじょう)
 進美寺山掻上城